日之本元極功法元極, 元極功, 動功, 天地, 日之本元極, 気功, 気功教室, 睡眠中, 神界, 言霊

1.動功 清昇濁降(清昇濁降む、ひと、ふた、み のいずれにおいても)をするとき、
メインで動功の録音教材をかけ、
サブとして小さい音で清昇濁降聞き流しの録音教材をかけます。
これによって、動功清昇濁降の録音教材のみで修錬をするより、
格段に効果が上がります。
2.下半身に邪気がたまって、排出がうまくいっていないと、
自覚している人は、
一日の内、可能な限り長い時間「清昇濁降聞き流し」の
録音教材を聞きます。
他にやりたいことがあるときにも、
邪魔にならない程度の大きさに音を絞り、
かけ続けることをお薦めします。
もちろん、睡眠中も睡眠に邪魔にならない程度の大きさで
朝までかけ続けて下さい。
3.この録音教材を聞いているときは、
なるべく邪気消しの措置をとるようにして下さい。
窓を開ける。
日之本元極の邪気消し線香を焚く。
場作りセットを設置する。
「海のまなみ」を四隅に盛る。
などをして、自分の輩出した邪気に再び侵されないようにします。

また、より功力を上げるには、
日之本元極の本部、支部で行われる錬功会にて

動功清昇濁降の修錬をする。
生言霊 清昇濁降
を受講する。
などを併用することが重要です。
また、この「清昇濁降聞き流し録音教材」を聞くとき、
並びに「生言霊 清昇濁降」を受講するとき、
「三元靴下」を履いたり、天のまなみと海のまなみにおける
足湯を同時に受けたりすると、効果が格段に上がります。

指定行脚セドナ, ニギハヤヒ, 元極, 元極功, 天地, 日之本元極, 気功, 気功教室, 神界, 超能力

2018年3月 1月の中国に続いて米国セドナに行くように
という指令が有りました。

ニギハヤヒの神様、出てきてください

神々の計画が順調に進んでいることを、

いつもいつも お話しされますが、
我々の組織は、全く順調には進んでいません。

これについて 伝えてください。

組織の拡大は 目前に迫っております。
これから、資金は集まりはじめ、スタッフは充実してきます。

このまま 推移するわけではありません。
こだわらず推移を見てください。
(とは言え、15年以上停滞の一途を続けています。)

増田の身体について言えば、これから回復に向かいます。
あまり行動しないで眠っていることです。
観光などを する必要はありません。
(必要なところに行くには、ガイドを頼まなければなりませんが、
その他の時、ホテルにじっとしているだけでは、怪しまれます。)

指定行脚ニギハヤヒ, マカオ, 元極, 元極功, 天地, 日之本元極, 気功, 気功教室, 神界, 高山

この中国に来てくださることで、
あなたが世界に飛びだつときが来ましたことを伝えます。
この世の仕事をするのですから、日本のこととか、国のこととか、
そういうことは、あまり関係が無いと思ってください。

国境を越えて拡がりますが、
中国であるとか、日本であるとか、

そういう考え方を我々はしておりません。
すなわち、日本で拡がることが、必要なわけです。
それは、日本人が多く神あがることを意味しています。

さらに、あなた方の住まいする高山には、
神上がる可能性のある者たちが多く住まいしていることを伝えます。

あなたがたに、これまで縁があった者たちも、
縁にしたがって仕事について行くのです

たとえば、教科書を中国語と英語くらいに翻訳すれば、

それでよろしい。

世界の中の日本。
日本の中の高山。

というような比率になります。
成り行きに任せて拡大をしていけば良いのです。

ブログ人の喜び, 元極功, 命日, 天地, 日之本元極, 気功, 気功教室, 神の喜び, 神界, 顕在意識

昨年、8月5日に50年以上つき合ってきた
無二の親友Kが、なくなりました。
彼の顕在意識はもともと五次元に居た神の存在でしたが、
肉体を持って元極功法を経験する為、
三次元であるこの顕界に生まれてきました。
3年ほど元極を修錬してその仕事を果たし、
六次元に神上がりました。
命日を迎えるに当たり、
神界の感想を聞いてみました。

あなたが死んでから一年が過ぎます
神の世界は、いかがでしょうか?

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あなたと過ごした頃のことを懐かしく思い出します。
本当にあの頃は楽しかったですね。
努力すれば変わる。
何かをすれば、結果がでる。
これは、人として生きることの限界なのですが、

それはそれは楽しかったです。
未来が見えないから、努力する。
限界が判らないから 変化を求めて頑張る。

それらのことが人として生きる楽しみでもあるのです。

神の世界というのは、楽々としていて何も苦しみはありません。
しかし、あのような未来は判らないから楽しい。
結果を喜ぶ。ということはありません。
人として生きるというのは、

人の喜びというのは歓喜に満ちていますが、
神の喜びは もっと上の段階の喜びです。
ですから、あの頃の喜び、人として生きた喜びは、
もう味わうことが出来ません。
ですから懐かしいのです。

あのころの感情というのは、もう味わうことが出来ません。
良い、悪いということでは無くて、なつかしいのです。