カタカナの神様へ
私が、カタカナで名前を書きました。
名刺の裏です。それに、婆たぬきが手をかざして感じてみようとしています。
ところが、手をかざして 感じようとしてもはっきりとした体感が無いと言うのです。
これはどうしてでしょうか?
誠に、普通のようであって、極めて波動が細かいので、浸透する力が細かいから
手をかざして感じてみようとしても それは手の内部まで浸透するのです。
全く分からないような、それでいて手は分からないけれども、
身体にはエネルギーが届いているような、そういう作用になっています。
あまりのエネルギーの波動の細かさによって、手をかざして感じようとしても、
手自体がエネルギーの中に包まれてしまっているのですから、分からないのです。
手にエネルギーの感覚が分からないのは致し方がありません。
手だけでは無くて、身体全体もエネルギーの中に包まれているのですから、
分からないのは道理です。
しかしながら、文字の光具合は極まって輝きを増しています。
物質的な感覚で感じようとせずに、悟ることしかありません。
または、身体全体の感覚で感じてみるほかはありません。
より精妙で、より細やかな波動とは、親和性が極めて高くて分からないのが正解なのです。
かといって、
ひらがなが下で、カタカナが上位の神であるとは言えません。
このエネルギーの違いは 終末の時を刻む仕事を任されたのが
カタカナの神であるということによります。
カタカナの神が威力を発揮する終末の時が来たことを意味しているのです。
終末の仕事を カタカナの神がすることは、日之本元極の力が 一段と上がったということになります。