宗教との相違点
一般的な生活を送っている人たちから見ると、
元極功法でこうあるべきだと推奨することと、
宗教といわれるモノに入っている人たちが目指している生活態度は、
「どこが違うんだ。」と、
その相違点をはっきりさせることが出来ないかもしれません。
神様にお聞きしても、「その人は宗教に嵌っているから・・・・」
と言われるような事もたびたびあります。
再度、明確に「元極修練者」と「宗教に陥っている者」の違いを明確にお聞きしてみました。
神様が宗教にはまっていると、判断する場合の判断基準はどこにあるのでしょうか?****
われわれは、人のために尽くして働く人との出会いを求めているのです。
人のために働くことが出来るように気功の力を借りること
このことは、極めて素晴らしいことではありませんか?
自分の健康を良くするためにも、この気功の力・功法の力は必要です。
功法の力を強化するために、自分自身が修練をすることが必要なのです。
人のために働くために、気功の功法の力が必要なのですから、そこが宗教とは全く相容れない事柄です。
最終的な「宇宙全体の為に自分を生かす。」という目的の為には、
功法によって自分自身を修練する必要があるのです。
でも間違ってはいけません。
自分の力を強化することが目的ではないのです。
「徳と功は車の両輪」と言われるのは、徳が有っても力が無ければ役には立ちません。
また力が有っても徳が無ければ、現代の各国の指導者達のように
毒を社会にばらまいているだけのことです。
宗教は、我を救うためにあるのです。
宗教は、我が救われるためにあるのです。
我が救われたい。
我が救われるために、心の支えが欲しい人々の集まりなのです。
結局、一生懸命に信じて修練をしても、この功法から離れて行かざるを得ない人々がいます。
その人たちが離れて行き、この功法を一途に修練をする人々がいるわけです。
どうせ自らの意識が残れないと感じ取ったときに、修練を止めてしまう者たちは、天の導きを受けてのことになります。
悲しいことですが、
どれだけ修練をしても救うことが出来ない者たちもいます。
悲しいことですが、現実なのです。