修練の基本的な心構え 2 元極功法 てい先生(おう通訳) 

2018年10月23日(火)新宮修練舎15:00~17:00 講演

「心印」に戻りますが、「印」とは印鑑の「印」と理解してもいいのです。「心」はこ
こにある。では、自分の印鑑を押す。自分の「心」はここにあるというふうに迷わずに信じ
込んで、「心」即ち「我」であると。「我」がもともと存在して、「心」がきれいになる
まで修練すれば、間違いなく最終的に「我」が生まれてくる。「心」が鏡のようで、後天
になれば、鏡はいつも汚れます。汚れれば人間はいつも過ちを犯します。反省するという
言葉がありますが、しかし反省してもまた過ちを犯す。というように繰り返すのが一般の
人には多いのです。でも反省する心があれば、自分の鏡をいつも磨くことになるのです。自
分の磨きによって、きれいな心になります。これは一つの一般論で、汚れて磨いて、汚れ
て拭いて。ある程度修練すると常に過ちを犯す前からそういうことを防ぐ。誤ってから反
省するのではく、過ちを犯す前から自分自身でそういうことをしないというレベルがある
わけです。過ちを犯して反省する。過ちを犯す前から心がける。どうやってできるかと言
えば、修練者では、「浄定観運心(じょう てい かん うん しん)」の一番の「浄」を心がけ
ます。自分の心をきれいな状態で保てれば、自然と悪い考えが生まれてこない。
「浄」は悪いことをしないことをしないように心がける。
そうするためには「浄」という段階で修練すると分かってきます。
増田先生の本に書いてありますように、心が安定して念訣すると自然と雑念が無くなる。
例を挙げて言いますと、静功をやるとき、形がそうなっていても、音楽が流れていても、
自分の心が他のことを考えている。雑念が生まれてくる。「家の方が、」「子供のことが、」
というような雑念が入ってくるのが普通です。そういったことが多いんです。
それを払い出すには念訣。念訣を忘れるとそうなる。十字真言を念訣すると、雑念が
だんだん減っていきます。十字真言を唱えて、竅穴を守るというやり方で静功をやらないと、
雑念が入りすぎて自分が寝てしまうとか、全然違うことを考えてしまうことになりやすいです。
同じ修練者でも人によって上達に時間がかかる、かからないということがあります。
早い人は衝関できる人。先生に言われた通りに修練する。下丹田、尾閭関を守るときは、
念訣を忘れずに竅穴をに金津玉液(三元エネルギーを含んだ唾液)を送るとしたら、
きれいにそこに送り、「観心」「念訣」「守竅」という3つを一つも忘れずにちゃんと
やればそうなります。尾閭関もそうです。尾閭関にエネルギーが貯まれば、衝関の効果
にもなります。
修練の時、時間が長いことよりも、どれくらい自分をきれいにできるかが大切です。
雑念というのは、鏡の汚れみたいなもので、汚れた「心」を持っていると、「心」と
「竅穴」が一致せず、修練の効果が無いはずです。雑念はすべて埃と考えて、本当に
きれいな「心」を持って竅穴をちゃんと守ってやると、時間に関係なく早くなります。
先天的な話で言えば、そういう「心」になって初めて人間が先天の呼吸が戻ってきます。
後天の呼吸は口と鼻でしますが、先天の呼吸は修練者には、胎息という言い方をします。
胎児の息です。毛孔竅穴で呼吸する。きれいな心でやると毛孔竅穴で静かに呼吸するように
なります。
ある人は修練すると下丹田の竅穴が感じられる。実際に竅穴でエネルギーが跳ねるとい
うのが分かってきます。それが集中力。きれいな心で雑念無く修練するとわかりやすい。
自然と後ろへ、尾閭関にエネルギーが移行するのがわかります。沢山の修練者で実際の
体験を持っています。
以前に修練するとき、てい先生の奥さんのお父さんと一緒に勉強しました。
お父さんは、静功で気持ちよかったと言いましたが、実際に確認したら、修練するときに
時々目を開けて、「家で水道の水はちゃんと閉まっているか?」という心配事があって、
また続けてやっていたら、こっちの目も開けて、「誰か入ってきたか?」というような
調子でやっていました。
こういう修練は雑念が多すぎて、修練とは言えません。いくら自分が気持ちがよいと言っ
ても、座ることで気持ちがいいというだけで、修練というレベルとは全然違います。
修練とは言えません。
元極学を勉強したいと意欲は一応あるのですが、自分は修練できずに結果的に貫頂でエ
ネルギーをもらうだけで、張先生が大連に来る度に貫頂に行きました。毎回毎回エネルギ
ーをもらって、しかし自分で自分自身のエネルギーに変えることはできないから、他人
によって他人の手伝いによって修練する形になりますが、自分自身のエネルギーを作るこ
とはできませんでした。今は亡くなっています。昔の話です。
中国でもこういう人が多いです。率直に言いますと。私の周りにもこういう人が多いで
す。
修練はしたいけど、なかなか実現できない人が多い。自分は自分で、慧心で一緒にはなっ
ていない人がたくさん存在します。一番目で「心印」の話をするのがそれなのです。修練
には「心」を無くしては何もできません。形だけになってしまいます、「心」を持ってい
ないと、修練ができない。「心」にちゃんと自分の印鑑を押して、それをいつまでも「心」
と体を一緒にさせる。そうなって初めて雑念がない。きれいな心での修練に変わります。
「心」があって竅穴を守る。音楽が耳から入り、きれいな自分になります。どれだけ
上手くできたか、それを検証する方法としては、自分の唾液がどれくらいの量出るか、ど
れほど自分の唾液が甘いかによって検証します。修練がうまくいけば、唾液が甘くなります。
「心」を使って修練すると唾液が甘くなるのです。
張先生は、お母さんから元極を教わっています。張先生の話では下丹田を修練するだけで
二年間かかりました。何よりも根本的な話は、竅穴と「心」が一緒になるということです。
これを覚えた上で、今度修練するときは「心」と竅穴が必ず一緒にということを心がけて
やります。そうやっているうちに自分の唾液が甘く感じるようになります。そういう形で
やっていると楽な気持ちになります。気分がよくなります。以上が「心印」のお話でした。

次は「信定」の話になります。信用の「信」です。これが「道」の源であり、また「功
徳」の母であるのです。「信」があって初めて「功徳」ができるという考え方です。人間の
善根と言いますが、人間の全てのいいことが、善い根はすべて「信」によって養われ、
「信」があって「善根」を養うという話です。この「信」はいったい何であるかと言うと、
認めるというか、そう思う、正しいということ、「信」は何を意味しているかと言うと、
信じること。信じないとこういうことがないのです。信じることで初めて「功徳」とか、
よいことが生まれてきます。
正しく信じることで初めて、いい念力、正しい考え、正しい行動、正しい覚悟、正しい
結果という流れになります。一番のもとが「信」であります。周りにもそういう人がいま
す。元極を勉強して、信じる人と信じない人がいます。信じない人は躊躇して、これは正
しいのか。半信半疑の人もいます。そういう信用しないと、今日はこれを学習し、明日は
またいいかと。そういう半信半疑でやると何年経っても上達できません。逆にちゃんと信
じてやっているうちに、その方が効果的には早くなります。
最初てい先生も元極学に接して勉強するときは、当時は中国でたくさんの気功の種類が
あります。人を倒すような気功。気を送れば物が動く。目で見るだけで砂を運んだり、
水をもってくるような超能力、硬気功というものがあります。友達が紹介してくれて、そう
いうのがあるよと紹介してくれたことがあります。そういうものを見て、私は全然自分の
信念を動かさず、元極オンリー、集中して勉強してきています。
なぜ私がそういう風に間違いなく元極を信じたかというと、この掛け軸に書いてあるよ
うに、私の心を以て天地に合わす。この体を以て元極に貢献すると強く思っていました。
元極学は人類に貢献をもたらすという話を非常に素晴らしいと思っています。信じた上で
勉強する。増田先生が作ったテキストがありますので、それに基づいてどんどん自分の理
論のレベルをアップさせる。元極学は一つのシステムです。理論がしっかりしていて方法
もしっかりしている。一つのシステムになっています。システムをしっかり身につければ
、全てが解決できる。最初初心者が、私がこれを勉強する目的は病気を治したい、私は長
生きしたい。私は超能力を身につけたいなど希望をもって入っているかもしれません。
しかし、そういう小さい目的をもってやると、逆にたどり着きにくい。反対の方でちゃんと信
じ込んでこういう「浄定観運信」という理論に基づいて、一つ一つ合わせて勉強していく
と、最初の小さい目的は知らないうちに達しているということになります。
理論の方が少し深すぎるかもしれませんが、言わないといけないというお話です。付け
加えてこれを説明します。「正信」正しく信じることによって、彼岸に登れます。川の向
こう側。正しく信じることによって永遠に逍遙楽をもらえます。付け加えて言いますが、
先ほど「反省」という話をしましたが、修練者は旧暦の1日、3日、13日、15日の4つの日
に、夜中の23時から1時の間で修練します。こういうときに修練する時は、「反省」の心
をもって修練します。反省すると心が楽です。反省しないと、心が何となく楽にはなれま
せん。
今度は元極功法の特徴をいくつか話します。まずは「胎息」です。毛孔竅穴を開いてす
る呼吸です。次は「性命」です。有形の体と無形の性です。これは先天、後天のことです
。十字真言によって後天から先天に戻ると書いてあります。まずは「胎息」の話をします。
これは先天の呼吸です。人間は先天で元気いっぱいで生まれてきて、だんだん成長して大
きくなり、周りと接します。六情七欲が出てきます。自然界の方でも、色々風だとか、雨
だとか、悪影響も受けて、後天に入ります。いっぱいエネルギーをもってきた先天のもの
はもう増えないので、だんだん後天によって減っていきます。後天の悪いものによって人
間が病気になったり、気分が悪くなったりということになります。後天的な影響を払い出
すには、方法論としては先天の「胎息」を探し出す。毛孔竅穴の呼吸法を身につけると、
後天から先天に帰ることになります。それで少し先天に近くなり、人間の体の病気がなく
なります。
どうやって胎息、毛孔竅穴の呼吸ができるかというと、ポイントは「念訣」と「守竅」
です。それが心と竅が一つになれば、胎息ができます。修練「静功」をやった後には歌っ
ていますが、音楽を聴いてそれが十字真言を歌っているということを忘れてはいけません
。念訣というのは、十字真言です。帯功、静功会をやるときには、いつも念訣しながらや
っていました。念訣を忘れると単に座るだけでは、エネルギー、パワーは生まれません。
いったい「胎息」、毛孔竅穴の呼吸はどういうものであるか、しつこく考えると自分の口
と鼻を閉じてやるのか。大間違いです。自分が静功をやってそういう状態に入ると、念訣
によって残ったあるものが十字真言、念訣があります。無いものは自分の雑念です。そ
うなって初めて楽な安定した体になります。そういうのが、毛孔竅穴による呼吸、「胎息」
と近いものになります。「胎息」はあくまでも状態です。こういう状態になるためには、
繰り返し言いますが、「観心」「守竅」という形でこういう状態になります。
こういう状態は修練者が求めるものでは無く、やっているうちにそうなります。
歴史上では、唐の時代に「げんしょう」という僧が、インドにいってお経をもらって
くる。西遊記で唐のお坊様がお経をもらってくる。本当の人物です。
仏教を研究する有名な大師です。
皇帝に派遣されて本をもらってくる。西の方から行きますが、途中で自分の弟子を何人かもら
いました。途中で別のお寺で修練者をみつけて、一人の修練者が何ヶ月も修練を続けてい
ました。その人が弟子入りをした。弟子が最終的に大きな修練者として成功しました。な
ぜ成功したかというと、定める能力がありました。何ヶ月間も洞窟に入って修練した経験
した経験があったから。そういう定力、定める力があったからこそ、最終的な修練になり
ます。これは実際する話です。
人はいつも前進しないといけません。先生によって引っ張られて次にいかないといけま
せん。そのお弟子さんがずっと洞窟に入って、同じことだけやっても成功しません。です
から常に前進することを忘れずにやっていきます。「こざ」と言いますが、同じことをず
っとやっていると枯れてしまいます。という言葉です。一部、二部、三部(階む、階ひと、
階ふた、階み)という形で前進するということを忘れないでやっていきます。
先ほど胎息、先天の呼吸に戻りまして、自然に自分の口と鼻の息が軽くなります。代わ
りに毛孔竅穴の呼吸が蘇ってきます。そういうときになると、気づいて欲しいのは、三門
、百会、天門。足の裏では湧泉、地門。労宮、人門。この3つを開けることも考えます。
それによって、天地、宇宙とエネルギーを交換します。

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Posted by masuda