日之本元極の源流(6)―3

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その3)

 (3) 陸修静が道教を広める
 陸修静(406~477年)は、字を元徳といい、呉興東遷(今の浙江省呉興)の人であり、江南の著名な士族の呉郡の陸氏の出身で、東呉の丞相の陸凱の子孫である。神仙道教をあまり慕わなかったが、真面目に修行を積んでいた。名山仙洞を訪ね歩き、道書を捜し求め、元嘉の終わり(453年)には宋の文帝に招かれ、評判になったが、のちに朝廷の動乱によって廬山へ去り、隠居して修行した。宋の明帝泰始三年(467年)には再び皇帝の命令を受けて崇虚館で道書を整理し道教を広めた。陸修静は葛洪以来の道教学者であり、一生の間に多くの著述を残し、道教の発展に非常に貢献した。

 1、三洞経書を総括し、道教典籍を整理した。
 晋宋の頃には、三皇派・霊宝派・上清派の経典が増加し、真作と偽作が入り混じり、その優劣も様々だった。道教の歴史を考察してみると、仏教の影響によって道教が発展したということがよくある。東晋南北朝の道士たちが盛んに道教経典を著したのも、その当時、仏教経典がどんどん翻訳されていったことと関係がある(梁の武帝の時に翻訳された仏教経典はすでに5400巻に達していた)。道教経典は急激に増え、早急にそれらを整理する必要があった。陸修静は崇虚館に留まっている間に朝廷の収蔵する楊羲・許謐による《上清経》を手に入れ、《三皇経》・《霊宝経》の道書も収集した。彼は、最初にそれを三洞(洞真部・洞玄部・洞神部)に分類し、「三洞の弟子」と自称して《三洞経書目録》を編纂した。陸修静は洞真上清経・洞玄霊宝経・洞神三皇経の源流を考察し、文章を添削して条理を選別しただけでなく、経典の伝授の仕方も完成させ、それによって道教の宗教性を向上させた。梁のはじめに、孟智周法師が顕した《玉緯七部経書目》は陸修静の道書の分類方法を継承し、三洞のほかに四輔(太玄部輔洞真・太平部輔洞玄・太清部輔洞神・正一部総輔三洞)を加え、道書を「三洞四輔十二類」に分類している。その分類方法は、現在でも用いられている。道書の整理と分類は道教の歴史の中では大事なことであり、道教の発展に大きく影響した。

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