日之本元極の源流(5)

張道陵(ちょうどうりょう)の神について、歴史上に残っている資料によって、人類にどう貢献してきたのかお伝えしました。続いて寇謙之(こうけんし)の神の貢献を伝えます。

寇謙之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寇 謙之(こう けんし、Kou Qian Zhi、365年 – 448年)は、中国・南北朝時代(北魏)の道士。字は輔真。道教を組織し、儀礼を定めた。上谷郡昌平県(現在の河北省の東北部で、北京郊外にある)の出身。北魏の河南公・寇讃の弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の末裔を称した。

若い頃から仙道を好み、張魯の術を修め服食(神仙になるための薬を飲む)すること数年たった頃、仙人・成公興に出会い、華山をへて嵩山に伴われ十年修業を積む。414年のこと、太上老君が天より降り、寇謙之の修業の熱心なことを賞して天師の位を授け、『雲中音誦新科之誡』20巻を与え、「三張の偽法、租米銭税や男女合気などの妖術を一掃すべし」と命じ、服気導引口訣の法を授けたという。

423年に李譜文から『録図真経』60余巻と鬼神を駆使する法、金丹雲英八石玉漿の秘法を受け、翌年に北魏の世祖に書を献じたが、宰相の崔浩が特に寇謙之に師事し、さらに帝に勧めて都・平城の南北に天師道場を起こさせた。五層の重壇にして120人の道士を仕えさせ、一日6回の祈祷を行わせる。世祖は非常にこの天師道を尊崇し、自ら「太平真君」と称し、仏教を排斥するようになった。442年に世祖は道壇に登って符録(道士としての資格の一つ)を受けた。

寇謙之は仏教の戒律などを参考にして、「雲中音誦新科之誡」をさだめた。さらに修業の段階に応じて資格を与え、師弟の関係を秩序づけ、道教の組織を寺院・教会のように確立した。中国北部における道教は、以後の王朝によって国教に準ずる扱いを受け、唐代以降の隆盛を準備するのである。

つまり道教の歴史は、太上老君(老子)に始まり、その力を神となった老子より、授かった五斗米道(天師道)の張陵、新天師道の寇謙之等が神上がり、太一道の簫抱珍に発展伝達していったものである。
 (つづく)

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