広瀬神社 高山市国府町 【ひだの神社 #008-02】
ひだの神社 #008
ひだの神社を順番にご紹介しています。(この項は、飛騨神職会発行「飛騨の神社」を参考にしています。)
広瀬神社(高山市国府町上広瀬)
銀幣社
祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
説云 斐陀国造大八椅命(ひだくにのみやつこおおやはしのみこと)之遠祖
天照国彦火明命(あまてらくくにひこほあかりのみこと)後合祭
由緒 創立年代は不詳。往古「広瀬神」又は、「広瀬神社」と称したが、文禄(西暦1592-1595)慶長のころから「広瀬神明」と改り、元禄五年七月、金森移封後は一円幕府の所領となった。同七年十月検地には二反一畝歩の除地を附せれた。以後は、単に「神明宮」と言った。「広瀬神社」の旧称のあったことは、明治三年庚午九月「斐太後風土記」稿本に「広瀬町村神明宮、元称広瀬神」と記せることでも明瞭であるが、明治三十一年十月二十九日願済復古して「広瀬神社」と改めた。
往古の社殿はその興廃は詳らかでないが、応永十八年九月、飛騨国司姉小路宰相入道尹綱、足利将軍に攻め滅されたとき、社殿・僧院共に兵火にかかって焼亡したことは、「菩提院縁起」によって明らかである。後領主広瀬氏により再興されたが、その年月は不詳である。永正十七年八月、広瀬城主左近大夫将監利治が、再建した棟札がある。以後興廃やや明瞭である。
神社は乗鞍よりの峰続きにある。付近の山を「歩み山」と言い、山が段々延びて来るので、大塚(亀塚)を築くとピタリと止まったと言う。それで「止め塚」とも言った。止め塚は明治四年国府小学校の敷地の一部となり、昭和初期まで有ったが、校庭を拡張したので、現在は跡形もない。
この大塚には「椀貸し伝説」があった。
例祭 5月4日
氏子 410戸
境内 1,032坪
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