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日之本元極によって開発される数々の潜在能力、功法の原理など
修練を積み、エネルギーに敏感な者が、ピカソの絵を見ていると中丹田、中黄庭などの、お臍の高さにある竅穴にエネルギーが入ってきます。それは、どうしてか?というと、中丹田、中黄庭、命門という竅穴は、人の生命に直接そして大きく関係する竅穴だからです。
ピカソの作品からは、生命のほとばしる様なエネルギーが発散されています。
自分の作品について、ピカソ自身がそのあたりの解説をしています。
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私の絵は、見る者に感動や感銘を与えるような絵では、ありません。カンバス上には、ある私のエネルギーやモデルのエネルギーが凝縮して乗せられています。このエネルギーのやりとりによって、私は成長し、彼女たちは、かわいそうにもエネルギーを奪われてしまう、という結果になりました。もちろん、その時、私はそういうエネルギーのやりとりが、具体的に起こっていたということなど知るよしもなかったのです。
カンバス状に描かれた絵の詳細を見て取ったり、分析しようとするのではなく、ほとばしり出るようなエネルギーの存在を感じて受け取ってもらった方が、そのものの本質を見極めることになるでしょう。
私の絵の技法など、評価されるべきモノではありません。簡素で爆発的な思いで、描き殴っている、思いの丈を描いているだけのものです。
評価を受けるとするならば、感性、感情、人の生命に関わるほどのほとばしり出るエネルギッシュな無形の意識やパワーの躍動が、このカンバス上にあることです。
絵画の善し悪しは、客観的に第三者が、それを評価するべきではないと私は考えています。善し悪しを決定するのは、描いた者の充足感、充実感、満足感であると私は考えています。さらに、モデルとなっているモノとのエネルギーのやりとり、交流がうまくできたならば、結果的に人の心を感動させる「絵画」が存在することになります。
第一義的に描いた者の「満足」が、まずあることです。不完全な気持ちの延長線上には、人の心を動かすほどの感動は存在しないからです。それは、絵画だけに留まらず、あらゆる出来事に共通するものです。不完全な、不満足な自信のない結果では、人の心を満足させることなどあり得ません。
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(続く)
今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。いずこも会期明日までです。
巨匠ピカソ愛と創造の奇跡 国立新美術館 ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート サントリー美術館 ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館 ~12/14
肉体を失ってから、神として存在する「ピカソの顕在意識」から、自らの絵画、芸術観などを、更に詳しくお話しいただきます。
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私は生前、人として勝手気ままな生き方をしたのにも関わらず、こうして神の存在となり得たのは、芸術を通して無形のエネルギーのやりとりや、人の意識は一つではないことを多くの人々に暗示することが出来たからです。神になれる基準というものは、人が考えているものとは大きく異なります。
神と言えど、絵画を担当する神の中では、端くれのようなモノです。この世界には、もっと大家がいらっしゃいます。結果として、私があなた方の道案内をした光栄に感謝しています。
私の描いた絵の顔の表情の左右が、違っていることに気がついていると思います。右をみているのは、写実的な世の中の光をみています。
左目は、世の中には、隠されている他の意識の人となりの存在です。
全ての時代を通じて、感性を優先させて描いていたのではありません。感性を優先させて、感性のままに描いていたのは、晩年です。全ての事柄を手に入れて、技術的にも名声も手に入れたときに、感性で描くという衝動を手にしました。
衝動のままに書くことを許された条件がかなった時に、それが出来るようになるのです。やりたいことが思いのままに出来るということは、それが許される条件がなければ、実現しません。
感性を感性として、衝動的なモノをそのままに表せるほどの条件が揃っていなければ、そのことは可能にならないということです。人は、人となりとしての仮面をかぶると、人となりの一部を被い隠すことができて、仮面の形相と化することを可能にします。
仮面の形相、それは、そのものの核心的な一部分であり、人となりの本質に迫る意識の構成部分です。仮面の形相を表すことを無意識に求めていて、顕わにすることを望んでいるのです。仮面は、まさしく、私の形相を表に出すこと、私自身の内なるモノを表面に表現する役割を果たしました。
人の内面、意識には、二つの意識(それ以上かも知れない)が存在していると感じていました。人の持ち味の中に、二つの意識が同時に存在し、その人の形相にそれが醸し出されています。その様相を直感的にカンバスに表したのです。晩年の作品にこそ、それらがより如実に表されています。人の意識は、同時に、行うこととは違う別のことをみています。
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(続く)
今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。いずこも会期明日までです。
巨匠ピカソ愛と創造の奇跡 国立新美術館 ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート サントリー美術館 ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館 ~12/14
我らが師こと「カメ仙人」の気功講義をご紹介していきます。
「天目と特異効能について」について、6回にシリーズの最終回です。
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他功法も含めて、巷で「吾は小周天を貫通した。」とか、「小周天は数ヶ月で貫通可能です。」と言う方々もみえますが、それらの実際は意念上や表皮を通しただけに過ぎないのです。それらの関門突破は、功力、念力、功徳に直接関わり、功と徳の聚積によって可能だということを常に頭に置いて、修練をしなければなりません。
現在、日之本元極功法では、「もとつきわみ図」理論に則り、(八層)X(十二層)=(九十六層)のルートに深く入っていくようになっています。上丹田(玄関)の奥に第三の眼と言われる天目が存在しますが、修練は有形の玄関から出発し、幾層もの玄関を中心とする効能の発展体系を形成しています。その玄関の内視は、修練段階が高次元に為るに従い、表皮層から深部へと入っていくことになります。しかしこの修練の発展的変化は、修練の自然の結果であって、自らの想念にて推し進めるものではないという点が重要な注意点です。
己の修練の進度を上げる為に上記のような方法をとることは、肉体、精神の双方に復帰不能な重大なる瑕疵(かし)を残すことになります。
この小周天及び、玄関の深まりが、四センチほどの奥に達すると、頭上から鉄槌を打たれ、そこに同時に雷風電火吹き荒れるような状態になります。玄関は飛躍的な変化を顕し、有形から無形の功能へと質的変化を起こします。功能は、それまでの有形的限界を突破し、無形の境界に突入していくようになります。
日之本元極 亀仙人
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ひだの神社 #008
ひだの神社を順番にご紹介しています。(この項は、飛騨神職会発行「飛騨の神社」を参考にしています。)
広瀬神社(高山市国府町上広瀬)
銀幣社
祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
説云 斐陀国造大八椅命(ひだくにのみやつこおおやはしのみこと)之遠祖
天照国彦火明命(あまてらくくにひこほあかりのみこと)後合祭
由緒 創立年代は不詳。往古「広瀬神」又は、「広瀬神社」と称したが、文禄(西暦1592-1595)慶長のころから「広瀬神明」と改り、元禄五年七月、金森移封後は一円幕府の所領となった。同七年十月検地には二反一畝歩の除地を附せれた。以後は、単に「神明宮」と言った。「広瀬神社」の旧称のあったことは、明治三年庚午九月「斐太後風土記」稿本に「広瀬町村神明宮、元称広瀬神」と記せることでも明瞭であるが、明治三十一年十月二十九日願済復古して「広瀬神社」と改めた。
往古の社殿はその興廃は詳らかでないが、応永十八年九月、飛騨国司姉小路宰相入道尹綱、足利将軍に攻め滅されたとき、社殿・僧院共に兵火にかかって焼亡したことは、「菩提院縁起」によって明らかである。後領主広瀬氏により再興されたが、その年月は不詳である。永正十七年八月、広瀬城主左近大夫将監利治が、再建した棟札がある。以後興廃やや明瞭である。
神社は乗鞍よりの峰続きにある。付近の山を「歩み山」と言い、山が段々延びて来るので、大塚(亀塚)を築くとピタリと止まったと言う。それで「止め塚」とも言った。止め塚は明治四年国府小学校の敷地の一部となり、昭和初期まで有ったが、校庭を拡張したので、現在は跡形もない。
この大塚には「椀貸し伝説」があった。
例祭 5月4日
氏子 410戸
境内 1,032坪
神社の写真はこちらをご覧ください。
ダリの絵画には、ピカソとちがって、情念とかは、関係ないのでしょうか?
ダリには、妻とのエネルギーのやりとりの気持ちだけで絵を描いていたのでしょうか?
シュールリアリスムの旗手であり、奇行の人サルバドール・ダリの芸術、その本質に迫ります。
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(ダリの顕在意識)
わたしは、形状の認識、形状のうつくしさ、形の構成、これらのことに、非常に興味がありました。平面的なことでも奥深く。奥深いことでも平面的である。その物体が形成する美しさは、まさしく平面ではなく奥深い。ものの持っている元本があるというように感じていました。
あくまでも、その奥を描きたい。奥深い存在を書き続けたい、と思ったのです。
彼女(ガラ)には、大いなる魅力を感じました。自分にはない奥深いモノをたくさん感じたのです。ものの、形状の醸し出す美しさ、それは、無形の世界が重なって出来上がっているということが、わたしには、よく分かりました。みえない事柄の本質を描こうとしたのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ダリとガラは、1929年初めて出会いました。その時ガラは、ダリの友人の妻だったのです。1932年その困難を乗り越え、二人は結婚しました。ここからダリは、ガラを題材にした多くの作品を残すことになりました。
1982年、ガラは死去します。ダリはこれに失望し、以後殆ど作品を手がけていません。
1989年、失意の中で亡くなりました。85才のことです。
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