元極功法習い始めの頃―鎌倉・長谷観音(2)
その頃は、寺院などに行ったことが全くなかったので、仏像などを写真で撮れないことなど全く知らず、駅前で「せっかくきたから、写真でも撮って・・・」と、使い捨てカメラをわざわざ買い求めました。
長谷寺に着き、中にはいると仏像は撮影禁止。カメラは全く無駄になってしまいました。
よく分からないまま、観音様に手を合わせました。写真が撮れないならと、売店でB5大の観音様の写真を買い求め、次の目的地へ向かいました。
その夜、なんと又、昨夜の方から電話がかかってきたのです。取り立てて用もないのに・・・。
そこで、
「今日、長谷観音に行ってきました。」と報告すると、
「さそってくだされば、一緒に行ったのに。」と、少しお冠。
それをなだめながら話していると、
「長谷観音様は確か、何かいわれが有ったのよねぇ」とおっしゃるので、
「そうそう、今日買った写真の裏に書いてありました。」と言って、そのいわれを読んであげました。
その後も世間話をいろいろ話されるので、ふんふんと聞きながら、手に持った写真を見ながら、何故か『この観音様の気を、相手の方の左手の労宮に送ってみよう』と思ったのでした。
今までそんなことをしたことも、思ったこともなかったときのことでした。
(つづく)
鎌倉長谷観音-ウィキペディア
鎌倉 長谷寺 H/P
超簡単、日之本元極の指気功(12)
⑧片手づつで
人が周りにいて、身体全面であまりおおっぴらに両手の指先をくっつけるようなことをしたくないとき、片手ずつでも調整が出来ます。
写真のように親指の先と他の指のどれかをくっつけるとその二本の指の繋がっている臓器の調整が出来ます。
全ての指は、経絡という気の流れる道で、手のひら側は「臓」、手の甲側は「腑」に繋がっています。くっつけたら
「む、ひと、ふた、み、よ、いつ、むゆ、なな、や、ここ、たり、う」
と繰り返し唱えます。声に出して唱えても、頭の中で唱えても(黙念)構いません。
自分の身体の具合によって、くっつける指を変えます。
どの指をくっつけたら良いかは、このブログの(5)から(11)までを参考にして下さい。
テレビを見ながらでも、電車の中等でも暇を見つけて何処でも出来ます。
癖のようにして実施してみて下さい。
元極功法習い始めの頃―鎌倉・長谷観音(1)
元極を習い始めて半年位のことでしたが、ある集まりで鎌倉に行くことになりました。その前日の夜、元極の講座でお知り合いになった高齢の女性から電話がありました。
今考えてみると、何の用事で電話を下さったのか思い出せない程で、世間話だけをしていたと思います。そのうち、その方が「私、何かあると鎌倉の観音様にお参りに行くんですよ。」と言われたので、「あれれ・・・」と、思いながらも「そうですか。」と聞き流していました。
電話を切った後、「待てよ、鎌倉に行くなんて、20年ぶりくらいなのに、何故その前日に鎌倉の話をわざわざ用もないのにしてくる人がいたのか?ひょっとして、行けと云うことなのか。」と思ったのです。
その頃は、まだ神社仏閣やら神仏などには全く縁がなく、毛嫌いしていましたが、まったく偶然とは思えないようなことでしたから、翌日、鎌倉の長谷寺に行くことにしました。
幸運にも本来の集まりは、午後からだったので、午前中に一人で出かけたのです。
(つづく)
鎌倉長谷観音-ウィキペディア
鎌倉 長谷寺 H/P
「科学的」は正しいか?―足利事件のDNA鑑定
本日(2009/06/17)中日新聞朝刊の文化面に、JT生命誌研究館館長である中村桂子さんの【「科学的=正しい」は危険】という記事がありました。足利事件で無期懲役の判決を受けて17年服役していた菅家さんの件について、当初の「185人に1人の確率」というDNA鑑定についての判断は妥当だったのかと問うています。
その時の最先端の科学の判断することが、常に正しいかどうか本当に我々もしっかりと考える必要があると思います。
現状では、この世界で科学にて判明していることは、分かっていないことに比べ、微々たる量と言わざるを得ません。分かっていないことの方が圧倒的に多いのです。
Cutting edge of science (科学の最先端) で判断することは、正に分かる所と分からない所の水際にて判断するということですから、大きな誤謬(ごびゅう)を侵し易いと言えなくもありません。それを持って、判決を受ける被告にとって、Cutting edgeとは生死の瀬戸際になる訳です。
日之本元極の「養徳標準」の中に、
・迷信だけを盲信せず。
・科学だけを盲信せず。
の二項があります。我々の扱う、元気(気)、元光、元音は、見えないものだけにこの二項を充分に心に留めておく必要がありそうです。