拈華微笑(ねんげみしょう)―1
元極功法の功能伝授の方法は、「伝音」である。
伝授者が被伝授者に対して無音で能力を渡すのである。
それを被伝授者にも判りやすくしたものが、「伝訣」「画訣」「観訣」である。
しかし本来の伝授法は、「伝音」で事足りるのである。
この方法は、古来いろいろな宗派、功法でも用いられているが、呼び名はそれぞれである。
「教外別伝(きょうげべつでん)」「以心伝心」「維摩一黙(ゆいまいちもく)」などと言われているが、
要は同じ事である。
この伝達方法の根本は、「黙念」にあることを知っている者は少ない。
繰り返し、黙念の波動が伝達し、共鳴することによる同調が起こるのである。
日々の黙念の積み重ねが伝達を可能にし、功能の引き渡しが行われるのである。
(つづく)
日之本元極の源流(4)
同じく張道陵について、三省堂 大辞林と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』よりご紹介します。
出典: 三省堂 大辞林
ちょうりょう ちやう― 【張陵】
中国、後漢末の道士。道教の源流とされる五斗米道(ごとべいどう)(天師道)の創始者。蜀の鵠鳴山で修行して符書を著す。後世、天師と称された。張道陵。生没年未詳。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/06/07 08:47 UTC 版)
張 陵(ちょう りょう)は、中国における原始道教の一派である、五斗米道(天師道)の開祖である。
沛国豊(江蘇省)の人というが、その伝歴には不明な点が多い。また、一説では張 道陵(ちょう どうりょう)と称しているが、後世の付会であろうとされる。
蜀(四川省)へ行き、鶴鳴山(鵠鳴山)に入り、「仙道」を学び、「道書」24編を撰したという。
彼の教法の中心は、祈祷を主体とした治病であり、信者に5斗(日本の5升=9リットル)の米を供出させたことから、五斗米道という呼称が生まれた。
張陵の伝記は、晋の葛洪の手になる『神仙伝』に詳説されているが、多分に潤色を加えられた形跡があり、彼よりも後世の五斗米道の教説も混入している。
その教団は、子の張衡、孫の張魯へと伝わり、広まった。張陵を尊称して「天師」と呼び、子孫は龍虎山へと移住し、道教中の一派である正一教となった。
日之本元極の源流(3)
先回、突然出てきました張道陵(ちょうどうりょう)の神について、各所にて知らされている資料をご紹介しましょう。
漢代末期、張陵(張道陵)は、「五斗米道」を現在の四川省青城山にて開きました。
三国志小辞典より
張陵Zhang Ling チョウリョウ (34?~179?)
漢徴士
字は輔漢《張魯伝集解》。沛国豊の人。張魯の祖父、張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される《張魯伝集解》。
建武十年(三四)、呉の天目山で生まれたという。さまざまな書物を習い、もともとは大儒学者であった。直言して諫めたため、江州県令に左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した。章帝が博士の官職を用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝が即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯伝集解》。
淮水を渡って鄱陽に入り、龍虎山に登って天の精気を一身に集めた。神秘の源を探して西方に行き、壁魯洞において「制命五岳摂召万霊及神虎の秘文」を発見し、そこで嵩山の石室に行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた《張魯伝集解》。
そうして道術を極めたが、巴蜀に名山が多く、また病気が流行して人々が苦しんでいると聞き、順帝の御代、蜀に仮住まいした《張魯伝集解・後漢書劉焉伝》。初めは陽平山に居を構えたが、のちに鶴鳴山に移り、そこで玄元老君(老子)の神秘的な声を聞いて、経典の奥義を授かった《張魯伝集解》。
『三国志』張魯伝では「鵠鳴山」とあるが、『後漢書』『水経注』では「鶴鳴山」、『太平御覧』では「鳴鵠山」とする《張魯伝集解》。
こうして身体を分解して変化を現し、『道書』二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖は二十四気に対応する二十四の祭壇を作ったので、王となって天下を領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀を行い、土の祭壇と草の屋根を設けて「二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気は減っていった。塩水の湧く井戸を発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない《張魯伝集解》。
永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まいを移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績を評価し、「天師衡使」の印を授け、代々受け継がせることにした《張魯伝集解》。
熹平年間(一七二~一七八)の末期、張陵は大蛇に呑み込まれて姿を消した。子の張衡は駆けずりまわって父の亡骸を探したが見付けることができず、そこで霊験を現して鶴に変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」との遺書を残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった《張魯伝集解》。
建武十年に生まれ、光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算が合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯伝集解》。
彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである《張魯伝・後漢書劉焉伝》。