日之本元極の源流(6)―1
寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その1)
道教と仙学 第2章
4、南北朝の道教の改革と成熟
東晋後期から南北朝にかけて、全国的に道教の改革が進んだ。新しい道派が次々に現れ、中国道教は著しく発展した。北朝の寇謙之は太上老君の命に仮託して道教を整理し、新天師道を建てた。彼は漢朝の制度を模倣した早期の天師道の形態を改変して封建政権との関係を調整し、天師道を教会式の宮観道教に移行させた。南朝の陸修静と陶弘景は、先の天師道の改革を受けて三洞経書をまとめ上げ、霊宝派と上清派を教会式宮観道教へ成熟させた。
(1) 寇謙之の天師道の改革
寇謙之(365~448年)は関中馮翊の士族の家庭に生まれた。天師道の世家の子弟でもあり、早くから道を慕い、長生術を修行していた。姚秦の時に仙人の成公興に付いて崇山に入って修練し、石室に隠れ住み、服食採薬をしていた。記録によると、7年後に成公興は尸解して昇天したが、寇謙之はたゆまず修行を続けた。姚秦の弘始十七年(415年)、その真摯さに打たれた太上老君が山頂に現れ、寇謙之に天師の位を授け《雲中音誦新科之戒》二十巻を賜った。太上老君は「私を広く知らしめ規律を新たにして、道教を整理し、三張偽法・租米銭税および男女合気の術を除去せよ。大いなる道は清く虚ろであるのに、どうしてこのような事があるだろうか。礼を意に介すことを第一とし、そしてこれに服食閉煉を加えよ」(《魏書・釈老志》)と彼に命じた。寇謙之が老君から授かった《雲中音誦新科之戒》は、現在の《道蔵》の《老君音誦戒経》であるが、現存しているのは一巻だけである。寇謙之はこれによって大々的に天師道を改革した。天師道の道官の世襲制を廃し、「才能のある者を選んで隠さず教える」という師弟制を採用した。教えを守っていくという世襲制の長所を留めながら、教主・道官の子孫が愚劣になって「道の教えが曖昧になっていく」弊害を避けようとした。また、彼は北方で道官が依然として用いていた蜀土二十四治の号の旧例を廃止し、道官や祭酒が任意に人から金銀財貨を取り、非現実的な規定が氾濫し、図書や仙方を偽造するといった混乱状態を改善した。彼は、天師道を神仙道教に沿って発展させた。寇謙之が新しい教義の中で最も重視したことは道戒を奉じ守ることだった。彼は道教の戒律を増やし、天師道の道戒と儒家の倫理規範を一つにしたが、これは朝廷が封建制度の秩序を維持していくための道具となった。そのほか、寇謙之は、無闇に房中術を伝え教団の気風が淫猥になることを防止し、斎礼拝などの宗教活動を強化するために礼儀手順を詳細に規定した。これによって天師道の宗教性は向上した。
天師道の改革が順調に進みだした北魏の明元帝泰常八年(423年)に、老君の玄孫の牧土上師李譜文が寇謙之の真摯さに打たれて崇岳に現れた。彼は寇謙之を仙人に名を列ねさせて《図録真経》六十余巻を授け、北方太平真君に彼を輔佐させた。寇謙之は《図録真経》(今はすでに散逸)の中で道教の神仙の系譜を新たに編纂し、諸神の壇位・衣冠・礼拝儀式にも格付けをした。これは実際には世俗の士族の階級制を神仙の世界に投影し、道教の倫理に封建制度の倫理を持ち込んだものである。また、彼は「劫運」説などの仏教思想も取り入れ、予言を行い、道教の国教化を推進した。彼は天師道の財源を変え、三張の「租米銭税」制度を廃し、士族や朝廷の援助によって道館を建てた。朝廷の命令によって館戸(つまり道館で労役に服する隷戸)に「道正」を設け、道教は政府によって管理されるようになった。道館は、北方では観とも呼ばれ、大きいものは宮と呼ばれた。道士は最初は山洞のそばに家屋を建てたが、のちに都市にも道観を建て、南北朝の時代には「館舎が林や薮のあちこちにある」といった状態になった。これは後世に教会式の宮観道教に発展していった。
寇謙之は天師道を国教にするために「帝王の師になる」ことを考え、《図録真経》を携えて下山し、新しく即位した魏の太武帝の拓跋に身を寄せた。はじめのうちは太武帝は寇謙之を重視せず、朝廷や在野の士族たちもその言葉に対して半信半疑だった。儒学の世家の出身で官僚だった崔浩が寇謙之と交わりを結ぶようになると、崔浩は皇帝に寇謙之を推薦した。《図録真経》を神聖化することは、中原の支配者になるという拓跋の野心に迎合していたので、拓跋は寇天師を崇めるようになった。天師道の道場が首都の東南に建てられ、《図録真経》は広く人々に知られるようになり、寇天師によって新しい道教が盛んになった。魏の太武帝は大夏に兵を進めようとしたが(423年)、北方を統一する戦争に対して軍の指揮者はおじけづいてなかなか同意しなかった。しかし、寇謙之は太武帝に「必ず勝つ」と予言したので、魏の太武帝は自信を持って鮮卑の騎兵を率いて次々と大夏・北燕・仇池などを滅ぼした。これによって北方は統一され、五胡十六国の争乱は終結した。戦争中には崔浩と寇謙之は軍に随行して功を立てた。北魏の拓跋は鮮卑が黄帝の子孫であると称して積極的に漢文化を学び、世家大族の漢人を登用し、天師道を発展させた。西暦440年、寇謙之は拓跋のために福を祈り、高潔なものを感じて「太平真君」の号を授け、年号を太平真君元年と改めさせた。また、太武帝は天師道の儀式に従って道壇で道教の符を受けた。寇謙之以後の天師道は道士に対する受の儀式を非常に重視し、「」は道士の証明書となった。弟子は受の前にまず道教の戒律や護符などを受け、それから正式な天師道徒になることができた。これ以後、天師道は北魏で盛んになった。皇帝が即位する時に道教の符を受けることも定例となり、元始天尊や諸々の神像も奉じられるようになった。かくして、天師道は北方の上層社会でその地位を強固なものにした。
拈華微笑(ねんげみしょう)―2
先回、「伝音」の 波動伝達と申し上げたのは、元極特有の言葉であらわせば、「元音」の伝達ということであり、一般的に判り易く表現したに過ぎない。
何度か、講座の中で私が体内より元音を生発し、「風(ふぉん)」という形でお見せしたのを覚えていらっしゃる方もおいでであろう。この元音生発の功法は、「階み」に昇格すれば、修錬段階として勉強することが出来る。
黙念の基本は、日常会話の中にもある。それについて、張志祥先生が、その著作の中で語っておられる。
談話も訣のエネルギーを表現する一種の方法である。現代のいわゆる「外気を放出する」功に相当する。人が交談しているときは、思想を交談の内容に集中させて、全身のエネルギーを動員して談話に応対する。意気投合して話に脂がのってくると交談者は「功能態」に入るのであり、体内の「音」が高度に組み合わされて配列し、口から妙語、警句が連発される。この時は特異なエネルギーが放出されていて、聴者を魅了してしまって、その喜びに従って喜び、その悲しみに従って悲しむ。これはエネルギーが聴者に働きかけて、「共同の音」を出させたのである。音を持って、音を求めるため、双方の心音が同調までに達する。これが即ち共鳴であり、知音である。
(つづく)
日之本元極の源流(5)
張道陵(ちょうどうりょう)の神について、歴史上に残っている資料によって、人類にどう貢献してきたのかお伝えしました。続いて寇謙之(こうけんし)の神の貢献を伝えます。
寇謙之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寇 謙之(こう けんし、Kou Qian Zhi、365年 – 448年)は、中国・南北朝時代(北魏)の道士。字は輔真。道教を組織し、儀礼を定めた。上谷郡昌平県(現在の河北省の東北部で、北京郊外にある)の出身。北魏の河南公・寇讃の弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の末裔を称した。
若い頃から仙道を好み、張魯の術を修め服食(神仙になるための薬を飲む)すること数年たった頃、仙人・成公興に出会い、華山をへて嵩山に伴われ十年修業を積む。414年のこと、太上老君が天より降り、寇謙之の修業の熱心なことを賞して天師の位を授け、『雲中音誦新科之誡』20巻を与え、「三張の偽法、租米銭税や男女合気などの妖術を一掃すべし」と命じ、服気導引口訣の法を授けたという。
423年に李譜文から『録図真経』60余巻と鬼神を駆使する法、金丹雲英八石玉漿の秘法を受け、翌年に北魏の世祖に書を献じたが、宰相の崔浩が特に寇謙之に師事し、さらに帝に勧めて都・平城の南北に天師道場を起こさせた。五層の重壇にして120人の道士を仕えさせ、一日6回の祈祷を行わせる。世祖は非常にこの天師道を尊崇し、自ら「太平真君」と称し、仏教を排斥するようになった。442年に世祖は道壇に登って符録(道士としての資格の一つ)を受けた。
寇謙之は仏教の戒律などを参考にして、「雲中音誦新科之誡」をさだめた。さらに修業の段階に応じて資格を与え、師弟の関係を秩序づけ、道教の組織を寺院・教会のように確立した。中国北部における道教は、以後の王朝によって国教に準ずる扱いを受け、唐代以降の隆盛を準備するのである。
つまり道教の歴史は、太上老君(老子)に始まり、その力を神となった老子より、授かった五斗米道(天師道)の張陵、新天師道の寇謙之等が神上がり、太一道の簫抱珍に発展伝達していったものである。
(つづく)