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私は張志祥先生より、何度にも渡っていろいろな能力をお渡しいただいた。
題に掲げた故事は、故事だけではなく元極功法に脈々と流れる神秘的な能力・情報の伝達方法である。

私がこのことを最初に実感したのは、元極を修錬し始めて4,5年経った頃、中国・蓮花山に行ったときのことであった。

その時講座に集った日本人や中国の客人達と共に、張先生と昼食を取る機会が与えられた。
楕円形の大きなテーブルに十五・六人が着いたであろうか。
テーブルの真ん中には、大きな花が飾ってあり、心の行き届いたもてなしが感じられた。
私は幸運にも、張先生の直ぐ右横の席に案内され、着座することが出来た。

食事は、いつもの事ながら、修練者や客人から張先生への質問で終始される。
食事が佳境に入った頃、あまりというか殆ど量を召し上がらない張先生の右手が箸を置き、
人差し指の先で小さくテーブルの上に文字のようなものを書いたのを見逃さなかったのは、
場の利を得た私だけであったであろう。
他の者は、中央に綺麗に飾られた花器に阻まれて気がつかなかったのである。

「あれ、食事中に何をお書きになっているのだろう?」と訝(いぶか)った私の脳裏に次に湧いた意識は、
「あっ、今何か戴いた。」というものであった。

その時は、あまりに突然のことで、何を戴いたか見当も付かない状態で、
その後の食事は、呆然と過ごしていて、何をどのように食べていたのかも良く覚えていない。

数日後、その時戴いた力は、人に能力を渡す力であることがハッキリと判った。
 (つづく)

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日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その3)

 (3) 陸修静が道教を広める
 陸修静(406~477年)は、字を元徳といい、呉興東遷(今の浙江省呉興)の人であり、江南の著名な士族の呉郡の陸氏の出身で、東呉の丞相の陸凱の子孫である。神仙道教をあまり慕わなかったが、真面目に修行を積んでいた。名山仙洞を訪ね歩き、道書を捜し求め、元嘉の終わり(453年)には宋の文帝に招かれ、評判になったが、のちに朝廷の動乱によって廬山へ去り、隠居して修行した。宋の明帝泰始三年(467年)には再び皇帝の命令を受けて崇虚館で道書を整理し道教を広めた。陸修静は葛洪以来の道教学者であり、一生の間に多くの著述を残し、道教の発展に非常に貢献した。

 1、三洞経書を総括し、道教典籍を整理した。
 晋宋の頃には、三皇派・霊宝派・上清派の経典が増加し、真作と偽作が入り混じり、その優劣も様々だった。道教の歴史を考察してみると、仏教の影響によって道教が発展したということがよくある。東晋南北朝の道士たちが盛んに道教経典を著したのも、その当時、仏教経典がどんどん翻訳されていったことと関係がある(梁の武帝の時に翻訳された仏教経典はすでに5400巻に達していた)。道教経典は急激に増え、早急にそれらを整理する必要があった。陸修静は崇虚館に留まっている間に朝廷の収蔵する楊羲・許謐による《上清経》を手に入れ、《三皇経》・《霊宝経》の道書も収集した。彼は、最初にそれを三洞(洞真部・洞玄部・洞神部)に分類し、「三洞の弟子」と自称して《三洞経書目録》を編纂した。陸修静は洞真上清経・洞玄霊宝経・洞神三皇経の源流を考察し、文章を添削して条理を選別しただけでなく、経典の伝授の仕方も完成させ、それによって道教の宗教性を向上させた。梁のはじめに、孟智周法師が顕した《玉緯七部経書目》は陸修静の道書の分類方法を継承し、三洞のほかに四輔(太玄部輔洞真・太平部輔洞玄・太清部輔洞神・正一部総輔三洞)を加え、道書を「三洞四輔十二類」に分類している。その分類方法は、現在でも用いられている。道書の整理と分類は道教の歴史の中では大事なことであり、道教の発展に大きく影響した。

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形示し

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「まつり」の形

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日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その2)

 (2) 魏の太武帝の滅仏と北方天師道の衰退
 道教が盛んになると、仏教との対立が激しくなった。もともと仏教は中国では方仙道の神仙の学を借りて布教していた。魏・晋や南北朝の時代には、北方の仏教は神仙道教に付き従い、南方の仏教は玄学に付き従っていた。仏図澄などは教えを伝える一方で、咒を唱えて鬼を駆ることもでき、法術占験を行って神僧と号していたので、実際には神仙道士と同じようなものだった。その後、仏教経典が大量に翻訳され、各地に高僧が増えていくと、次第に仏教の本来のありようが人々に知られるようになった。北方に五胡が入り乱れると、仏教は少数民族にも伝えられた。後趙の時には、石虎が仏図澄に心酔し、積極的に仏教を推奨したので、多くの漢人が出家し、寺院が国内のあちこちに建てられた。石虎などの少数民族の国主が仏教を信奉したのは、仏教を借りて漢文化に対抗しようという心理があったからでもある。彼らは「朕はもともと漢人ではないし、仏は漢人の神ではない」と考えていたので、仏を崇めるようになったのも自然な成り行きだった。仏教が盛んになると、それは北方で漢文化を代表する儒学の世家のねたみを買うこととなった。崔浩は儒学の士族の出身でったので、仏教のような優れた異文化を非常に憎悪した。魏の太武帝拓跋ははじめは仏教を悪くは思っていなかった。しかし、のちに寇謙之と崔浩に影響されて誠実に道教を信奉するようになり、また北方を統一する戦争では割拠政権を助ける僧侶と何度も敵対したので、次第に仏教を嫌悪するようになった。崔浩は機会をつかんで仏教を滅ぼすよう太武帝をそそのかし、太武帝は太平真君七年(446年)に仏教を滅ぼせという命令を下した。魏の太武帝は中原の支配者となるために、漢文化を崇め、鮮卑族が黄帝の正当な子孫であると考えるようになった。彼が、「朕は異民族ではなく、異民族の神を事としない」と天下にアピールするために仏教を滅ぼそうとしたことも自然な成り行きだった。

 仏教を弾圧したことは仏教を信奉する鮮卑の貴族の反発を招き、拓跋氏の政権内部の対立が激しくなった。寇謙之は僧侶を虐殺することには賛成しなかった。彼は死ぬ前に天師道がやがて政治闘争のあおりで衰退していくことを予測していた。寇謙之の死後、崔浩は鮮卑の貴族の反発から死刑にされた。ほどなく、西暦452年には太武帝も殺された。後世の皇帝はみんな才知があり仏教を信奉したので、天師道は衰退していった。特に北斉の文宣帝高洋の時には、天保六年(555年)に道教を廃止する命令が下され、寇謙之の天師道教団は断絶してしまった。

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風景

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元気フォト

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功法の力

張志祥先生は著作の中で、次のような例を挙げてみえる。

霊鷲山(りょうじゅせん)にて、釈迦牟尼が衣鉢(いはつ)を伝える為に全体の弟子を坐前に呼び集める。衆弟子は世尊が説法するに違いないと思っていたら、しかるに世尊は端坐して無言のままでいる。衆人がいぶかっている中を、迦葉(かしょう)が世尊に向かって微笑する。世尊は直に手に持っていた花を迦葉に渡して、自分は既に衣鉢(いはつ)を迦葉に伝えたと声明する(この時、正法眼蔵-しょうぼうげんぞう-を与えたと言われる)

この「拈華微笑」の故事は、即ち「知音相伝」である。それは心音の情報が相互に疎通した為であって、無声の対答の中で心で衣鉢を伝えたのである。禅宗は従来この方法で衣鉢を伝承するのである。談話は音に対する黙念であり、訣に対する変化(へんげ)であって、功能態の下に行われる交流である。談話で病気を治すことが出来るし、談話が功力を増進させることも出来る。古代の各門各派は、みな口授心伝を重視する。その妙用は即ちこれらの原因に基づくものである。

私が、度々錬功会に出てくる人達に、錬功が終わったらサッサと帰るのではなく、その後の談話や、食事会に出席しなさいと言うのは、こういった理由からである。
(つづく)

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風景

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