拈華微笑(ねんげみしょう)―追陳(ついちん)
前回「この元極独自の元音の生発、共鳴、伝達の功能を身に着けることが、「拈華微笑」の伝達方法の基本なのである。」と、最後に申し上げた。
このこと(元音の生発、共鳴、伝達の功能)が完全に出来るようになるには、元音の修錬「階み」を終了することである(中華元極の旧功法では、3部功法・人天交会法)。
人天交会法は、十段階の功法の下から三段階目。日之本元極功法「階み」は、十二段階の下から四段階目である。
「な~んだ、下の方じゃないか。」と、馬鹿にする事なかれ!
中華元極功法公開12年間、そしてそれ以後も含めて、人天交会法を完全にマスターできたのは、2800万人の入門者の中で、僅か5人という難関なのである。
人天交会法は、1999年2月に公開されたのであるが、私の修錬としては1996年より既にその段階の修錬は始まっていた。
元極功法を修錬し始めて3年余あまり経った頃、第2部「鴻蒙済判法」4次元・中黄庭の修錬をしていた。
ある日、中黄庭を守って静功をしていたとき、突如、中黄庭にあった三元エネルギーがものすごい勢いで膻宮へと勝手に移動したのである。
その膻宮の段・下から三段目の修錬というのは、まさしく「人天交会法」の修錬なのである。まだ公開されていなかった「人天交会法」の功法の道理を、それまでに何回もお渡しいただいていたように、張先生は私に渡しておいて下さったのである。
日之本元極の源流(6)―7
寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その7)
(6) 楼観道の起こり
古楼観台は、今の陜西省西安市の南にある終南山の山麓の北にあり、周の時代には関尹子の邸宅だったと伝えられている。《漢書・芸文志》によると、関尹は「名を喜といい、関所の官吏だったが、老子が関を過ぎると、喜は官吏をやめてこれに従った」と注釈してある。後世の仙伝では彼を関令尹喜と呼んでいる。関隴の士族天水の尹氏は関尹子をうらやみ、道教を信奉したその子弟のほとんどが楼観に住み、尹喜の子孫であると称した。魏・晋の神仙道教の道士梁堪は楼観に住んで修行し、鄭法師と仙人の尹軌(山西省太原の人、武当山の神仙道士)から神仙方術を伝授され、晋の元帝大光元年(318年)に仙去した。その弟子の王嘉は、字を子年といい、陜西安陽の人だった。彼は著名な道士であり、苻堅と姚萇に非常に礼遇され、《拾遺記》や《牽三歌讖》を著した。王嘉は孫徹に伝え、孫徹は馬倹に伝え、楼観道団を形成した。北魏の太武帝の時、楼観道は次第に盛んになった。その中の優れた道士には尹通、その甥の尹法興、弟子の牛文侯、王道義などがいた。彼らは楼観に住み、道教経典を購入し、不動産を増やし、広く功徳を施し教団を拡大した。魏の孝文帝の時、王道義弟子の陳宝熾は、常に《上清大洞真経》を読み、未兆先知の術(予知能力)を持っていた。その弟子の李順興・侯楷および侯楷の弟子の厳達も優れた術を持ち、一時期名を馳せた。北周の武帝の宇文が仏教と道教を廃止した時、特に厳達・王延・蘇道標・程法明・周化生・王真微・史道楽・于長文・張法成・伏道崇の十人を招き、通道観に入らせ修道させた。世間では彼らのことを「田谷十老」と呼んだ。隋・唐の時代には、楼観道はさらに勢いが盛んになった。
楼観道の道士は太上老君を尊び、尹喜を慕い、《道徳経》・《老子西昇経》などを研究した。それは、神仙道教と北方新天師道が結び付いたものだった。その後、南方の陸修静や陶弘景の経派の道法が華山の陸景・焦曠・韋節などの道士によって楼観に伝わり、楼観の道士の王延も華山で修行をしたので、南北朝時代後期の楼観派の道法は南北の道教が融合していた。楼観の道士は《老子》・《荘子》・《列子》・《周易》を研究していただけでなく、上清経法も修めていた。楼観道は隋・唐にも盛んに伝えられ、宋代まで伝承されていた。
日之本元極の源流(6)―6
寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その6)
(5) 南北朝時代の仏教と道教の争い
南北朝時代は、中国の伝統文化の中に儒教・道教・仏教の三教が鼎立するという文化構造が次第に確定した時代である。この構造が形成される過程で、内外の文化が激しく対立した。南北朝時代には仏教経典が大量に中国語に翻訳され、寺院は日増しに経済力を増し、僧侶は国内のどこにでもいた。その勢力は道教を超え、神仙方術や玄学といった外套を脱ぎ捨て、独立した正統な文化地位を奪取した。三教の争いは、最初は儒教と仏教の間で展開した。たとえば劉宋の元嘉九年(432年)には、天文家・数学家が《報応問》によって仏教の因果応報説を批判すると、仏教徒は《答何衡陽書》を著して弁解した。この種の争いは鬼神の有無や応報の虚実からだんだんと死後の霊魂の有無つまり精神と肉体の関係へとエスカレートしていき、梁代には範糸真が《神滅論》を著して争うまでになった。仏教がはじめて中国に入った時、布教の必要性から、老は関を出て西へ去り「その終わるところ知るなし」という司馬遷の《史記・老子伝》の記述をもとに、老子は西方で「インドに入りブッダになった」という説が作られた。そのために仏教は中国文化と同じものであると認められたのである。後には《老子化胡経》(西晋の道士王浮の作であると伝えられている)が世に出た。その説によるとブッダが西方でインド人の仏となった老子や関尹子の弟子であると見なしている。南北朝以降、仏教徒は《老子化胡経》の真偽を巡ってに度々議論を繰り返して道教を攻撃し、2つの宗教の優劣を論争した。道教徒も儒教と連合し、「夷夏の辯[中国と異国の言い争い]」や沙門は王者を敬うべきか否かなどの問題を出して仏教を排斥した。仏教は極力中国の国家権力に従属し、「忠孝」の倫理観念を受け入れ、次第に中国化していった。
南朝の宋斉の頃には有名な道士の顧歓が《夷夏論》を著し、道教を聖教であるとして褒め讃えたが仏教を戎法としてけなしたので、仏教徒から集中的に非難を受けた。その後も南斉の士族張融の名を借りて《三破論》を著した道士があり、仏教には礼教の倫理に合わないところがあるので「国に入って国を破り、家に入って家を破り、身に入って身を破る」と述べた。また、「老子化胡説」を根拠にして、老子は「胡人が粗野なので、その悪の種を断とうと考え、男に妻を娶らせず、女は夫に嫁がせず、一国に法を伏し、自然に滅びるようにした」と述べて仏教を侮辱した。仏教徒も《老子大権菩薩経》・《清浄法行経》など少なからず経典を偽造して道教と儒教を陥れようとし、「ブッダが3人の弟子を中国に派遣して教化したという説」を作り出した。その説によると、「摩訶迦叶、彼は老子と称した」と言い、儒童菩薩はすなわち孔丘、光浄菩薩は顔淵である。三教のののしり合いの言葉はどんどん劣悪になったが、三教を調和させようという考えも次第に起こってきた。梁の武帝蕭衍は天子の位を譲り受けた心理的なプレッシャーを取り除くために仏教によって罪業を除こうとしたので、仏教は南朝で盛んになり、三教を融和しようという動きも盛んになった。天台宗の三祖慧思禅師が著したといわれる《誓願文》には、「諸々の賢聖に私を補佐してくださいと願い、好芝草や神丹を得た」、「外丹の力を借りて内丹を修め、衆生を安らかにしようと思いまず自分が安らかになる」と述べてある。これは仏教に道教が引用された例である。陶弘景は「かって夢で仏がその菩提を記して授け、名を勝力菩薩と為し」、「五大戒を誓い授かった」し、浄土宗の始祖の曇鸞は道術を授かった。これらは仏教と道教の両方を修行していた例である。
北朝の仏教と道教の争いは、南朝の文章による言い争いとは違ってそこに皇帝の利害関係もからみ、仏教あるいは道教の弾圧という形になった。前に述べた魏の太武帝の仏教の弾圧のほかにも、北周の武帝宇文が仏教と道教の両方を弾圧した。北周の武帝は国をよく治めることに尽力した名君であり、道教・儒教を信奉したが仏教は好まなかった。当時、仏教の経済力は大きく膨らみ、僧侶や寺の小作人はどこにでもいて、寺廟は州都のあちこちにあり、国家の財政にも影響を及ぼしていた。そこで、北周の武帝は何度も三教に論争させて三教の優劣を定めさせ、仏教を廃止するための世論を作った。甄鸞は《笑道論》によって道教をけなし、道安は《二教論》を書いて仏教を崇めて道教を抑えた。道士も《道笑論》を書いてこれに対抗した。何年かの論争を経て、建徳三年(574年)に武帝はやむをえず仏教と道教の両方を廃止する命令を出した。沙門・道士は還俗させ、「三宝福財は臣下に分け与え、寺観塔廟は王公に賜った」。ほどなくして、皇帝の命令によって通道観が建てられ、道士・僧侶を選抜して観に入らせ、《老子》・《荘子》・《周易》を研究させた。通道観に入った道士・僧侶は通道観学士と呼ばれた。また、通道観の道士の助力によって、《無上秘要》という道書が書かれた。これは道教史の中では重要なもので、総合的な道教の類書である。
漢代の司馬遷の著した《史記》では、関を出て西へ去り「その終わるところ知るなし」とある。《老子道徳経》を著したこと以外にはっきりした経歴はわからないが、後世には多くの伝説で粉飾された。
道教でも重視される《老子道徳経》は、彼の申し出に応じて老子が著したものである。老子同様、実像については全く不明であるが、《列仙伝》などによれば、老子に従って西方へ去ったといわれる。
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