沖縄 斎場御嶽(せーふぁうたき)にて―6
沖縄から高山に戻り、暫く経った頃、また斎場御嶽(せーふぁーうたき)の神よりお声が掛かった。またまた何用かと思いきや、下記のような内容であった。
先日は、わざわざ沖縄に来て、われわれの もとを 訪れてくれたこと 本当に喜んでいます。現在の斎場御嶽では、とても心地よい風が吹いています。これほどの心地よい風は、眠っている間にも 感じたことがありません。
必ず、再びこの地に来て、我々と共に、陰の神のいる「久高島」に行って、陰の神の処遇を決定する仕事をしてください。再び貴方に会えるときが来ることを喜びにしています。
何故われわれがいる神の聖地を、斎場としたのか?についてですが、補足的に説明をしておきます。
それは、われわれがこの地に着いてから、眠ってしまったからです。
我々が寝てしまっていても、ここが威厳のある場所であると判った者達は、この斎場御嶽を威厳のある、格式の高い、大切に囲い込み残す、重要な土地として祭るために、何が最適であるかと考えたときに、斎場を選択したのです。
そうして、人があまり多くは立ち入ることが出来ない、多くの者が立ち入って、汚すことをしない場所として、斎場を祭りはするけれども、多くの者が来れずに、汚すことが出来ない場所として、格好の土地の活用方法だとおもったようです。
その斎場として使われることを、我々は許し、眷属達もそれに従い、現在に至っています。
沖縄で想念が祓われたこと―1
沖縄に呼ばれ、その地の想念を祓う事は、どんな意味があったのか、神が語ってくれました。
遠く南国の地に行って、人の想念は祓われました。しかし、これを期に最後の一時を迎えるまで、想念が祓われ続けることになります。
人の想念の重さや、まつわりつくようなその粘質性の重みが人の心を解放せず、覆い被さるような呪いのように、想念がまつわりつくことがありました。
人の行いが悪いと、同じような波動となり、同じような波動に感応してしまうことがありました。けれども、想念が祓われると、人の思いは影響されることが少なくなります。
解放されて、思いの通りに生きることの出来る、希望に満ちた気持ちになる人もいれば、感応されることが無くなった想念は、軽く軽くなるので、人として命を全うできずに、消え去る想念もまた、あります。
一段と両極端に振り分けられる。自分の思い、魂の導き、それらが一段と受け入れ易くなります。良い者はよい。悪い者は悪い。と、いうはっきりとした区分けがなされるようになります。
けれども、どんな状況であれ、顕在意識がより良く生きようとするならば、チャンスは与えられます。それは、今まで通りのことです。
今回、ここが祓われたことによって、想念に影響されずに、救われる意識が増えたと言えます。