誕生祝錬功会・有り難うございました
今日は、私の誕生日でした。
恒例の錬功会があり、高山近隣のみでなく、岐阜県内は勿論、遠く県外あちこちから多くの方々が出席して下さいました。本当に有り難うございました。
また、遠くで来られない方々も、東京、宮城などは、高山の錬功会と時間を合わせ、錬功会を開いて下さいました。
わたくしの力の限り、日之本元極修練者に三元をお送りしましたので、本日の錬功は大きな進展があったことと思います。
今後とも互いに力を合わせて、修錬を頑張っていきましょう。
下の色紙は、出席していただいた方々にお渡ししました三元エネルギーが迸(ほとばし)る物です。
是非人々の集まる部屋などに置いていただいて、三元の供給効果をご享受下さい。
食べ物とその生産について―2
現在、世界中で生産される食糧を遣り繰りすれば、餓死する人々など出るはずもないのである。
ここ飛騨の地では、いまだに「サツマイモのつる」を食べたり、「ころいも」といって、
直径1~3センチ位の、他の地方では投棄している芋を煮て食する文化が残っている。芋のつるなど、私が子どもの頃より何度も母親から聞かされた戦時中の話の中で出てきただけの物である。今でも食べられているとは、高山に来るまで知る由もなかった。
国でしないのであれば、一人一人が考えて生活するしかないであろう。
・必要以上に食べない。
・無駄に捨てない。
これだけでも、どれだけ他人に回せる食糧が生み出されるであろうか。
更に、形の揃った野菜しか売らない農業ではなく、不揃いでも元気で美味い野菜や果物を作る農業を国として推進すべきでないのか。
我々が感じるに、動物の肉は波動が悪く、身体に良くない。魚類にしても大型になればなるほど波動が悪くなる。
当然のことだ。食物連鎖は、邪気の重畳連鎖である。
こうした物を完全に食べることをやめることはないが、頻度を少なくすることで健康に好結果を産み、人がその飼料のまま食糧にすれば(或いはその農作地で別の物を生産すれば)、更に多くの農作物が人の食糧となる。
(つづく)
食べ物とその生産について―1
「節食、絶食、断食、絶飲食、僻穀の意義」という文章を書いていて、その本題とは別に食のあり方についても書きたくなってきたので、題を別にしてここに記す。
「捨てる文化」が定着してきてしまい、飲食物には賞味期限なる物を必ず付けなければ、販売できない仕組みだ。しかし、それを過ぎても充分美味しく戴ける物は多いし、というより、賞味期限直後では、ほぼ100%まだ食べて問題が起きないだろう。
人は自分が食べようとする食物が良いか悪いか、殆どの場合、味、臭い、感触、目視などで分かるものである。悪くなった物は、酸っぱくなったり、ぬるっとしたり、臭くなる。人は、古来そうして判断してきた。
それをしないで、データだけで判断しようとする所に、そもそも大きな間違いがあるのではないか。人の感性は、使わねば退化していく。またそうした経験のデータベースが自己の記憶に少なければ少ない程、判断は不正確になっていくだろう。
製造年月日だけを、きっちり間違いなく表記させればよいのでないか。買った後は消費者の責任である。そうしたことを徹底すれば、廃棄される物は少なくなる。
新鮮で美味しい物を常にタイムリーに販売する業者は流行り、そうでない所は自然に淘汰される。
修錬を続けていくと、味覚、臭覚、響きに関する聴覚、温度や気の善し悪しによる熱い寒いの感覚、触覚、勿論無形の物に対する視覚などが、ドンドン敏感になってくる。
一般生活でも、こうした人の潜在能力を発揮できるような生活をしなくてはいけないのではないか。昔に比べ便利にはなっているが、能力を退化させるような仕組みが作られてきている。
近々公開するであろう「階ひと」観訣講座の後に受講できる「識眼功」は、人のもつ潜在的な六つの感覚をより鋭敏にし、総ての情報を的確に判断処理することを修錬する為の功法である。
(つづく)
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。photo by Sigma DP1
節食、絶食、断食、絶飲食、僻穀の意義―1
近頃、テレビ、マスコミにおいても、人々の話題の中にも、飲食に関連する物の比重が非常に多くなっていると思われる。
特にテレビでは、毎日あさから夜中まで、「あそこのこれが美味しい」とか、「ここの何それが、まいう~!」とかいい、大食い番組まで頻繁に組まれ、高価な料理を沢山食べることが美徳のように奉じられている。
こうした食に関する番組専門のようなタレントも多くいて、それらの人々は痩せると仕事が来ないというように聞いたことがある。
まったくもって、今やこの日本は、デブと大食いを礼賛する社会に成り下がってしまったのかと愕然とする思いである。
世界の各所で、毎日多くの人々が餓死しているという現状の中で、自分たちだけが鱈腹食らい、糞尿垂れ流して、多くの食糧を日々廃棄している。
捨てる位余っているなら、足りない所に何故施すことが出来ないのか?不思議でならない。
確かに、ある素材をどう料理し、美味しい物に仕立て上げるかということは、その積み重ねとして文化の創造と言える。
その地域の食材をそこの風土に合わせ、調理する。そのことが一番身体にも、その場所にとっても良い消費方法であることは間違いない。
近年、地産地消という言葉が盛んに使われているが、実際には、食材の六割以上が外国産であるという体たらくである。
今住んでいる所の風土で育った、食材をその風土にあった処理方法で調理し、過不足なく戴く。
これが本当の地産地消であって、文化に繋がる所行であり、健康の秘訣と言える。
決して食べ過ぎてはいけないのである。
「腹八分目」
昔からの言い伝えであるが、これは一般的な人々に言えることで、修練者にあっては、無形の三元エネルギーを取り入れることが出来る訳であるから、上級になればなるほどその比率は下がっていくことになる。
この延長線上に、節食、絶食、断食、絶飲食、僻穀等の概念と、実際の事象が存在するのである。(つづく)