個の存在の評価について―4
個の存在、個の評価に関わっては、時間という一つの空間を越えて考えなければいけません。
その存在そのものが、どれだけ多くの者の幸せを求めて活動できたか?
に関わってきます。
人と人との関わり、自然と自然との関わりの中でどんな生き方が出来たかということです。
そのことと同じように、時間も過去から未来に、未来から過去に同時に流れているのです。
個は全体の中の一つであり、全体は、この中に包括するものになります。
個は個として全体の一部であり、全体は、個を包み込む存在であるということです。
個の存在というのは、非常に小さな全体の一部分ですが、同時に全体であるのです。
宇宙の構成物は、皆宇宙と同じ構造に創られています。
人の細胞一つ一つにも意識があり、その意思疎通のために、サイトカインやホルモンを分泌して、情報のやりとりをしています。
細胞は個であり、人一人が全体であり、集合であるといえます。
細胞は全体である肉体を生かすための一つの単位であり、人一人の肉体というのは、細胞を包み込み活かすための全体としての存在です。
この宇宙、三千世界の大きな法則のひとつには
「個の存在の価値と評価は、個がどれだけ全体に与える影響が大きいかによる」
というものがあるのです。
その影響が、その事象単体で良い、悪いという事でなく、連続としての変化の中で全体に与える結果の大きさを評価される訳です。
個が個人として、どう生きたかは大切ではありますが、良い生き方をしたというだけでは、評価されません。
どれほど多くの者達に影響を与えたかということが評価されます。
この宇宙の意識達は、「個であり、集合であり、全体であること」の練習をずっとしています。
我々3次元のモノ(動物、植物、鉱物など)は4つ乃至(ないし)5つの意識の統合体で構成されていますが、4次元からは1つの意識で1人立ちします。
ところが、それまでと同じように与えられた仕事、座(役割、職責、位というような意味)ごとに組織として動くことになります。
また4-6次元では陰陽別個の存在としてペアを組んでいますが、7次元以上は陰陽一体の存在となって、一つの存在が一つであり、二つでもある存在となる様です。
生まれた瞬間から死ぬことは決まっています。ただ生き方により、その時は変化します。
死んだらどうなるかではなく、生きているときから死ぬことは決まっているのです。
ずっと上昇し続けられるか、途中で淘汰されるかのどちらかということです。
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個の存在の評価について―3
かと言って手段を選ばずに、何をしても許される訳ではありません。
その時、その時代の歴史の背景があります。
武蔵が生きた時代には、平和的な手段では、何事も達成できなかった訳です。
そういう手段しか選ぶことが出来なかった結果なのです。
今後、人の命を奪うことについては、もっと慎重に考えられるべきですが、全てを今の尺度で、過去の出来事を計ることは出来ないわけです。
我々の尺度もまさにそうであるし、武蔵が生きてきた尺度も今では考えられないほどの「命」の尺度の問題があります。
そのことは、しっかり鑑みて考慮されなければならないことです。
また、悪事について一言、言及するならば、「目立ちたい」「注目を浴びたい」がために、わざと悪事を働く者がいます。
「世間の注目を浴びて、話題に上りたかった。」といって悪事を働く者が少なからずいます。
その者たちは、厳に謹んで処分されるべき(人が人を処分することを言っている訳ではない)です。
後世に影響を与える事柄というのは、後世に希望を与えるような影響を残せるかどうか?
というところが重要な問題です。
そうではなく、ただただ目立つために奇異を衒(てら)って、独自の議論を拡げるために、自分の欲のために、世間に影響を与えようとする者がいてはならないのです。
個の存在の評価について―2
その武蔵が死の病床においてまとめた「独行道」二十一箇条は、晩年武蔵の思いの凝縮とも言えるでしょう。
「独行道」
一、世々の道をそむく事なし
一、身にたのしみをたくまず
一、よろずに依枯(えこ)の心なし
一、身をあさく思い、世をふかく思ふ
一、一生の間、欲心思わず
一、我事において後悔をせず
一、善悪に他をねたむ心なし
一、いずれの道にもわかれをかなしまず
一、自他共にうらみかこつ心なし
一、恋慕の道思いよる心なし
一、物ごとにすきこのむ事なし
一、私宅においてのぞむ心なし
一、身ひとつに美食をこのまず
一、末々代物なる古き道具を所持せず
一、わが身にいたり物いみする事なし
一、兵具は格別 よの道具たしなまず
一、道においては死をいとわず思う
一、老身に財宝所領もちゆる心なし
一、仏神は貴し仏神をたのまず
一、身を捨て名利はすてず
一、常に兵法の道をはなれず
保弐年五月十二日 新免武蔵 玄信
かと言って手段を選ばずに、何をしても許される訳ではありません。
その時、その時代の歴史の背景があります。
武蔵が生きた時代には、平和的な手段では、何事も達成できなかった訳です。
そういう手段しか選ぶことが出来なかった結果なのです。