以前どんなことを書いたか、まずはお復習いです。
昨年夏(2007年)、名古屋市美術館で「ダリ展」がありました。
ダリは、数多く妻の絵を描いています。
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(ダリの妻の魂より)
わたしは、絶大なる欲望の固まりとして、
ダリは、自分にないものを妻が持っていることを
生活そのものは、捕らわれない結果、質素でした。
注)人には、魂、本性、顕在意識、潜在意識、
写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。
日之本元極によって開発される数々の潜在能力、功法の原理など
わたしは、絶大なる欲望の固まりとして、
ダリは、自分にないものを妻が持っていることを
生活そのものは、捕らわれない結果、質素でした。
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会期
2016年9月14日(水)~12月12日(月)
毎週火曜日休館
開館時間
10:00~18:00 金曜日は20:00まで
ただし、10月21日(金)、10月22日(土)は、22時まで
※入場は閉館の30分前まで
会場
国立新美術館 企画展示室1E
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2
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写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく、『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのこと。
氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだという「みのたろう」さんのブログに触発され、写真での無形のモノのやりとりについてお話ししています。
「みのたろう」さんのブログは、こちら
例として、徳の高い修練者が写真を撮る場合など、写真の腕は良くないけれども「よい写真をとろう」という意図を持って写真を撮っているので、 撮られる方(花や草木など)は、喜んでいる。そういう無形のエネルギーのやりとりがなされている。だから、そういった場合には、写真の画面から、心地よいエネルギーを感じることになります。
草木、花、山河のエネルギーが自然に写真から出てくることになります。
然れども、一般に写真の場合は、絵画と違い、撮る者の一方通行の場合が多くなります。
思いの質に沿うように波動が変化します。撮る瞬間、その時に被写体に対して思いがあれば、その感激が、そこに反映されてくることになります。その撮ったその瞬間の思いに同調して、エネルギーが激写されます。
エネルギーの移動は、シャッターを切ったときに激発的になされます。
激発的に、移動したエネルギーは、現像されたとき、はじめて目にしたときに、反対に見た者に移行します。そこに、エネルギーの移動の関係が出来るのです。
そのエネルギーの移動こそが、
写真を見たときの感動を生んでいるのです。
(つづく・・・・かな?)
写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく、『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのこと。
氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだという「みのたろう」さんのブログに触発され、写真での無形のモノのやりとりについてお話ししています。
「みのたろう」さんのブログは、こちら
エネルギーは、無形のモノですから、無形の意識に左右されます。意図があれば、無形の意志に左右されます。無形の意志に同調して動きます。
カメラマンに、通常では写らないモノを撮ろう撮ろうとする意識がある場合には(オーブのようなモノを意識的に撮ろうとする場合など)、その意志に動じてエネルギーが動きます。
それは無形のモノですから、波動が同調するエネルギーのみが動きます。たとえ、被写体に多くのエネルギーがあったとしても、そこ(カメラ)に、受け取れるエネルギーというのは、同調するエネルギーだけです。
善意を持って写そうとすれば、そのような善意のエナルギーが転写されますし、功名心を持って撮ろうとすれば、そんな荒い波動のエネルギーが集まってくるのです。
無形のやりとりとは、そういうことです。
双方の意志が同調しなければ、そこには、関係は出来るけれども、お互いの意図の関係は、より強く意志を持つ方に支配されます。写真を撮られる方に格別な意志がなければ、撮る方の意志に同調して、動くことになります。
相互の関係ではなく一方に意図があれば、一方の意図に、引きずられるように、一方の意図の延長線上の波動に、引きずられます。
(つづく)
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。
photo by Sigma DP1
携帯からは →→→ こちら
以前、ピカソやダリ、ボッチョーニを例に取り、芸術上での無形のモノのやりとり、意識の働き、エネルギーの移動などについて述べたことがありました。
本日、「みのたろう」さんのブログで写真について、専門家の意見が出ていましたので、写真にとっての無形のモノのやりとりについて、お話ししたいと思います。
「みのたろう」さんのブログでは・・・・・、
写真家の白川義員氏は、自らの衝撃的な体験を通して、
「写真とは、シャッターチャンスをただ待つのではなく、『念じて撮る』のだ。」
と語っているとのことで、氏はこの仕事を通して自然への畏敬の念を啓蒙したいようだとしています。
「みのたろう」さんのブログは、こちら
実のところ、写真では、情念のやりとりが、瞬間的に爆発しておこります。
爆発的なやりとりがその瞬間に起こるということをお伝えしておきましょう。その写真を現像した時に現れるだけではなく (これはフィルムの場合。デジタルカメラでは、ディスプレーに写した時) 撮影した瞬間、撮影した瞬間、その時その時に、エネルギーを交換し続けるエネルギーのやりとりのルートが出来るということです。
それでは、エネルギールートができるとするならば、写真を撮るときに自分のエネルギーが、そこに注がれるということはあるのでしょうか?
それは、以前お話ししたピカソの如く、写真においても、被写体からエネルギーを取ろうという意識が有るか無いかは別として、相手のエネルギーを取ろうとして写す者と、自分のエネルギーを相手に注いでしまう者と二種類あるのです。
(つづく)
この大黒が走る姿という新聞記事を見て、大黒天本人にお話しを聞いてみました。
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わっはっは、
わしじゃよ。大黒じゃよ。
これは、わしが走っている姿じゃよ。けれども、通常人が、走って歩く、走って飛び跳ねるという姿ではないぞ。走ってすべる、走って進行するそういう姿じゃよ。つまりは、われわれは、人の形をしてはおるが、神の存在じゃ。身体は有機物じゃが、無形の身体を基として存在しておるのじゃ。
重量というものがなく、飛び跳ねる必要がないのだよ。走っているけれども、人の常識で考える走る姿ではなく、すべって、飛んでいる姿だと想像してくだされ。そのために、右手、右足。左手、左足がそろって、前に踏み出されているのじゃ。
交互に、滑って走る走り方のようになっていて当然じゃろ。
この像は、そういう、我々の存在を感性で捉えた者が、我々の姿を見えるようにあらわしたものなんじゃ。
古来、日本にはそうした見えないものを感得する能力を与えられて生まれてきた者が多く居ったのじゃ。そうした像や、絵画には、伝統的に伝えられてきた物が数多く残されて居る。
人の形で存在している神ではあるが、それは、指導する対照の人々と気持ちを同じくするという意味で、身体を同じくしておるのじゃ。
しかし、われわれは、無形の存在として神の世界、無形の世界に、依拠しながら、この世に存在しているものなのじゃ。
もうひとつの走っている像は、人がモデルじゃぞ。
まったく重心の位置がちがっておろうが・・・・。
重心の位置が人として、足にあるのに反して、我を模した立像の重心点は身体の中央にあることがわかろうものぞ。
人を表しているか、その立像が何を表しているかは、無形のものを感得しようとする気持ちを修練すれば、自ずから、モデルとなっているモノが、何者であるのかということがわかるようになってくるんじゃ。
判ったかの~、わっはっは・・・・・。
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この中の、滑るという感覚は、スキーの距離競技を思えば判るでしょう。
身体が左右にぶれず、一回の蹴りで長く滑るには、右手と右足が同時に出るのです。走るときのように右足左手を出して滑ってご覧なさい。身体が捻られて、上手く滑れないはずです。
いずれにせよ、無形無象のものの大切さが判ります。(完)
ボッチョーニは、ウィキペディアで・・・・・
2008.12.11の朝日新聞夕刊に以下のような記事が掲載されました。
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美 くらべて見る11 大黒天立像VS.ボッチョーニの彫刻
走る姿 ゴールは同じ
ふつう大黒天というと、右手に打ち出の小づちをもち、大きな袋を背負って、米俵の上にどっかり座るか、しっかと立つかのどちらかのポーズをしているものだ。
ところが鎌倉時代に作られた「大黒天立像」(奈良国立博物館蔵)は、両手両足を前後に大きく開いて疾走している。大地をしっかり踏みしめ、ひたすら前へ前へと力強く邁進しているのだ。
これは「立像」というより「走像」といったほうがいい。
こうした自由闊達な姿態表現は、日本では、平安時代の絵巻物から北斎にいたるまで見られるものだ。
ところが、ヨーロッパでは、躍動感や飛翔感の表現にすぐれた成果を上げた17世紀のバロック美術、そして19世紀のロダンでさえ、走る彫刻までは生み出さなかった。
ヨーロッパで、動きの表現を本格的に追求しようという気運が高まるのは、20世紀初頭のイタリア未来派においてである。連続写真の開発に刺激を受けて、動きの表現を絵画に積極的に取り入れたのが始まりだ。
ボッチョーニはそれを彫刻でも試みて、「空間における連続運動の特異な形態」という作品(写真下)を生み出した。
ボッチョーニの作品は、人間というよりは、ロボットやサイボーグを思わせるが、それでも生身の人間の動きを感じることが出来る。水あめみたいに粘りのある液体の中を人間が通ったら、こんなイメージになるのかもしれない。
人体の動きの軌跡、人体の周りを包む空気までをも形にしているため、太ももやふくらはぎが異様に膨張し、まるで衣服の裾がひるがえっている様に表現されている。それが結果として、袖や裾に風をはらんでひるがえる大黒天の衣服に近づくことになったのだ。
ともに右足を大きく前に踏み出している点まで共通しているのも偶然とはいえ面白い。
それぞれまったく別の地点から運動表現の問題に迫って、似たような解決法に落ち着いたところに、造形表現というものの普遍性を感じる。
ボッチョーニは、ウィキペディアで・・・・・
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この二つの作品を比べ見て、無形無象のものをある程度体験したものであれば、全く違うものであることがはっきりと判ります。
まず両作品が右足を出している共通性が判ったのであれば、何故大黒天像が右手、ボッチョーニ作が左手を出しているのに気がつかないのでしょう。
ボッチョーニの作品では、下半身と上半身がひねられています。通常の疾走と言って良いでしょう。衣服のたなびき(作用する力の向きと言っても良いかもしれません)は、後方下向きです。左右の足の下の大地は、別けられてはいますが、平面の連続性を感じます。
然るに、大黒天像にあっては、右足と右手を大きく前に出しています。江戸時代以前の通称ナンバ歩きではそういったことはありますが、全速力で走っているならば、けしてそうはなりません。
両手首の向きに注目して下さい。走っているときの向きではありません。
また衣服のたなびきが、上に向かっているのが判るでしょう。右足などはめくれ上がっています。足の下は、左右が繋がっているにも関わらず、左足の部分が深く沈んでいます。疾走しているのであれば、こんなへこんだところに足を入れることはありません。この作品の、足の下のものが、大地に見えますか?
ではこの大黒天は何をしているか、・・・・・飛翔しているのです。
足の筋肉に力が入っていないのが、お判りになるでしょう。
二つの像では、重心位置、またその加速度方向が大きく相違します。
見えるものを像にした作品と、見えないけれども感じたままに作られた作品の大きな違いです。
芸術を見る目とは、肉眼で細部を見ることに加えて、見えないものを見る目のことを言い、見えないものを感じる感覚を研ぎ澄ますことが重要な鑑識眼を育てることに通じます。
この大黒天像は、立像でも走像でもなく、飛翔像と言うべきです。
(続く)
ピカソの神が、自らの業績と作品について詳しく述べて下さった貴重な「芸術論」も、今回で最後です。
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後世に残す目的で描かれたわけではない私の絵が、結果的に後世に認められて、あるていどの評価を得ているのは、非常に嬉しいことです。わたしは、生活の糧として描いた時期もありましたし、思いのままにわがままに描いた時期もありました。それらの私の人生の道のりがあってこそ、結果的に良い絵が生み出されたのでしょう。
私に与えられた役割は、自分の得意とする絵画、芸術で人々を魅了することです。
感動が存在すると共感が生まれる。共感によって、相互の関係ができれば、エネルギーのやり取りが発生し、結果として感動が残り、定着する。そういう「魅了」が実現したのを喜んでいます。
そのとき、そのときの思いの丈を表現できた喜び、多くの者に自己の思いを訴えることが出来た喜びを感じています。
今、神としての立場を与えられて、共感して心を動かすという点で、気持ちを同じくして歩く者たちとともに、仕事をしていくことになります。
モノが動く、ということと同じように、心が動く、ということは、事柄の基礎となる大切な底辺です。心を動かすということは、共感する、同じ思いをする、波動を合わせる。そして無形であるエネルギーの流動が完成する、ということです。私のアドバイスがそういう分野で、あなた方に生かされることを切望しています。
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終わるにあたって、一つ申し添えておきます。ピカソの神は、取り立てて一つの色に愛おしい程の愛着があったということです。それは「黄緑」です。わざわざそのことを、私に「記憶しておいて下さい」と、最後に述べていかれました。(最終回)
今、国内三カ所でピカソの展覧会を開催しています。いずこも会期本日までです。
巨匠ピカソ愛と創造の奇跡 国立新美術館 ~12/14
巨匠ピカソ魂のポートレート サントリー美術館 ~12/14
ピカソとクレーの生きた時代展 名古屋市美術館 ~12/14