芸術と気功


先月ダリ展に行ったことで、
何回かダリについてこのblogに思うところを書きました。
その中で、
ダリの妻ガラが別段大きな仕事をしているとは思えないのに、
神上がっていることに疑問を持ちました。
そこで、当の本人ガラを呼んで、
いろいろお聞きしてみました。

ダリの妻 ガラでございます
お呼びいただきまして、ありがとうございます。
お呼びいただきましたことに感謝いたします。

「ダリとガラは、一卵の卵の中から誕生した。」
とは、ダリがかつて言っていた言葉ですが、私も同じことを考えて、ダリに伝えました。
ババタヌキさんが、神の言葉を聞くように、
私も同じように言葉を降ろされて、

というか察知して思いつくことが多くありました。

ダリは私の言葉を信じて、その通りにしたことが、

良い絵を生み出す結果につながりました。
私は奔放に生きて、
自分のしたいことをしたいままに生きてきましたが、
神の言葉を降ろされて、
その通りに直感したままに、彼には伝えました。

私は、結果的に自分の天命を果たしたということを評価いただいて、
最初から決められた役割を果たしたということが評価されて、

彼とペアの神の存在にしていただきました。

われわれは、天地天命の一卵の卵であり、
わたしはダリとともに神上がり、

あなた方のお仕事のお手伝いをする仕事もいただいたのです。

ガラがダリよりも5年ほど早くなくなりましたが、
亡くなって以来、ダリの創作活動は、
殆ど無くなってしまいました。
天からガラへと降ろされ伝えられることがなくなってしまい、
描くことが出来なくなったのかもしれませんね。

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芸術と気功


以下のように多摩美術大教授の椹木野衣(さわらぎのい)さんの

紹介文が読売新聞から出されています。

その中で、ダリは常識と非常識 、

現実と夢の垣根がなくなっていると述べています。

しかし私はそうではないと思っています。

椹木さんが夢と言っているものは、

ダリには本当に見えていたのだと思います。

我々のように修練によって、

あるいは師の力によって強制的に、

天目が開いていれば、

通常の人たちには見えない無形の映像が見えるわけです。

それを物質的な映像と、

重ね合わせて描いただけだと思われます。

むしろその2つの映像を区分けして描くことなど不可能だったからです。

そうした手法で書かれた作品の中に、

「姿の見えない眠る人、馬、獅子」

「見えない人物たちのいるシュールリアリズム的構成」

「死の快楽の中で」等があります。

死後、神上ることが約束された上、生まれてきたダリにとって、

そうした能力が発現された事は当然のことだと思われます。

上記の作品などの多くは、 1930年代以後に発表されたものです。

描きあらわす技術を身につけた上で、

鋭い観察力と狂人じみた思索、しつこいほどの表現欲求が整った後、

そうした作品が生まれ出てきたのだと思います。

我々も含め、

有形有象と無形無象、有形の世界と無形の世界、

この双方の存在を認め、

そうした構造の中でいかに有意義な生涯を送るのか、

問われているところなのです。

芸術と気功


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ダリの神に質問です。

あなたは、何を評価されて神になることが出来たのですか?
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私が評価されたというよりも、

神になって働くことが適当であると、定められていたのです。
つまりは、この役割を持って生まれてきたといえます。
デザインや絵画が優れていたという点は、

多少評価されましたが、それよりもむしろ、

私は神になることが決められていて、

導かれて生きて働く活動をしていた。
そして予定通り、神として働くこととなり、

あなた方と出会った。
私は、神になってから与えられる仕事の方が

重要なので、神上がったのです。
それは、そうなるべくして、

私の誕生前から計画されていました。

神になってから、与えられた重要な任務である仕事とは、

一大イベントでもある大きな仕事は、

こうしてあなた方を導いていくことなのです。
絵画的なこと、デザイン的なこと、

空間的なことを通して、
あなた方の組織が拡大の道筋を歩んでいくように導くことが、
神として定められていた私の役割なのです。

あなた方に縁を持った人々、修練者のS.H.もそうですし、

デザインや絵画の数々も

すべてに興味を持ってデザイン、表現等をしていく者たち、
あなたがたもそうですし、あなた方を支えていく者たちに、

広く導きを与えています。

それは、私ひとりではなく、

この役割を担っている神々のチームということになります。
私は、幸運にも導く者の一人として、

直接的にあなたがたに話せる時をいただきましたことに感謝しています。

芸術と気功

働く者の多くは、なぜ働くのか?と問われれば、
働くことが生きるために重要だからと答えます。
働くことが生きるために重要というよりも、

組み込まれた人生の設計図の中に生きて働き、
人の役に立って次の時代に

命をつないでいくことが必要だったからです。

われわれが生きている間は、

常に仕組まれた、構図の中に生かされている。
そんな感覚で時を過ごしていました。
そんな中で、私は危惧している問題を持ちました。
それは、私が描いている絵の中にも表しているとおり、

放射能の汚染です。
(ダリの作品の中には、「ラファエロの聖母の最高速度」、

「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」、

「ビキニの3つのスフィンクス」

「パイ中間子の天使」というような、

放射能を示唆する作品が多く見られる。)

広島に落とされた放射能、

さらに原発で汚染が拡がっている放射能、

それらは、やがてはこの地球を汚して、

次の時代に移り変わっていく破壊的な事柄であり、

このことをきっかけにして、世の中が大きく変化していくことを、

あなたがたに伝えなければなりません。

世の中の悲しい現実とともに、お伝えしなければならないことは、

私にとっても悲しいことなのです。

私の絵が素晴らしいという評価を得ているのは、

私が素晴らしいのではなくて、

私には空間的な感覚があって、

それら思いっきり表現したところ、

それに共感する人々がすばらしいと評価してくださった。

ですから、すべての人が、

私の絵をすばらしいと感じるわけではありません。

ここが、あなた方と共通する事柄であると思います。

世の中に、認められるということは、

すべての人に認められるということではありませんから、

結果的にターゲットが絞られてくることにつながります。
私と共通しているところは、そこのところです。

芸術と気功

私が、とらわれたのは、愛情と「しそう」。
「しそう」とは、考えではなく、死ぬこと。

常に人は、生まれて、生きて、愛し合って死んでいく。

そういう人の生涯を感じておりました。
すべて、生きている者たちの意識、感情の中には、

死んだ者の感性が息づいている。
つまりは、それは輪廻転生している「意識」が

存在するということだったのですが、
そういう生きて死ぬことの感覚が、

生きている私の意識の中に

大きなウエートを持って存在をしていました。

その当時には、自分自身の感覚としては、

とても不思議で理解しがたい感情だったのです。

それらは、白い空間と黒い空間が一緒に存在するとか、

上下、左右の距離が同時に存在するとか、
時空が、同時に存在するという

貴方の考えと相通じる考えがありました。

そういう、次元の中の感覚は、

神上がった今現在では

当然と言えば当然の感覚なのですが、
当時、理解もできない空間の感覚を感じることができたことは、

私にとって幸運なことでした。

幸運だったことを、技術的な力を得て、

絵画にぶつけるように表現したことが、

多くの人々の共感を得たのです。
ということは、私の感じた空間と時間の概念、

生まれることは死ぬこと、生きることは死と共に生きること、
という概念は、誰しもが持ち得ている感覚である

ということに通じます。

芸術と気功

肉体の死後、神上がったダリの神より

日本中が放射能に汚染されている 悲惨な状況の中で

あなた方をここにお招きしましたことは、

偽りなく嬉しく思います。
かねてよりの計画であったとはいえ、

大変感謝申し上げます。
(神の導き通りに、我々が形示しの行動を取ったことに対して・・・)

私はあなたが察している通り、

異常と言えば異常ですし、

感性が研ぎ澄まされて優れているといえば優れている存在でした。
精神分裂、多重人格、統合失調症

という病名も当てはまることだと思います。
それなるが故に、

芸術家としての一風変わった空間的な思考と時空を超えた思考と、
時間に迫られて居る様な時の強迫的な観念と、

そういうモノを持ち得て、
思想の陰に見える無形の空間の中に、

真実を表すことができました。常に人は空間の中で生き、
生かされてエネルギーを得て、

宇宙の中の一人として生きているのだという概念を、
私はかねてより感じておりましたので、

それらを絵の中に描いてみたところ、

多くの人々が共感する作品になりました。

目には見えないはずの人々が、

空間の感覚に畏敬の念を持つという結果が、

私の絵の評価につながったのです。
考えてみれば、めちゃくちゃといえば、

めちゃくちゃなのですが、
私の構図は、私の空間的な、時間的な、

時空の枠を超えた構図です。
そういう感性を表現したかったということにつきます。

芸術と気功

ダリの絵画には、ピカソとちがって、

情念とかは、関係ないのでしょうか?

ダリは、妻とのエネルギーのやりとりの気持ちだけで

絵を描いていたのでしょうか?

シュールリアリスムの旗手であり、

奇行の人サルバドール・ダリの芸術、

その本質に迫ります。
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(ダリの顕在意識)
わたしは、形状の認識、形状のうつくしさ、形の構成、

これらのことに、非常に興味がありました。

平面的なことでも奥深く、

奥深いことでも平面的である。

その物体が形成する美しさは、

まさしく平面ではなく奥深い。

ものの持っている元本があるというように感じていました。

あくまでも、その奥を描きたい。

奥深い存在を描き続けたい、と思ったのです。
彼女(ガラ)には、大いなる魅力を感じました。

自分にはない奥深いモノをたくさん感じたのです。

ものの、形状の醸し出す美しさ、

それは、無形の世界が重なって出来上がっているということが、

わたしには、よく分かりました。

みえない事柄の本質を描こうとしたのです。
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ダリとガラは、1929年初めて出会いました。

その時ガラは、ダリの友人の妻だったのです。

1932年その困難を乗り越え、二人は結婚しました。

ここからダリは、ガラを題材にした多くの作品を残すことになりました。

1982年、ガラは死去します。

ダリはこれに失望し、以後殆ど作品を手がけていません。

1989年、失意の中で亡くなりました。

85才のことです。

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