神仏との出会い

輪廻転生して生きるということは、生やさしいことではありません。

人が生きて構成していく意識の組み合わせは、

その者の与えられた役割や、神の意図によって決められています。

ですから、少し知識を持った者達、または 想像力の豊かな者達が偽りの表現をして、

出鱈目なことを言っている場合もあります。

中には何代かの者達の中には、それらの意識を持って後世に伝えたいがために、

同じ意識を使わせた者もいます。

しかし、圧倒的に偽り、出鱈目、嘘、でっち上げがほとんどです。

それらのことを利用している者たちが、悲しい現実を作ってしまいました。

神々の意図によって拡げるために、私の意識を生きた者達もいましたし、

著名人の中には、より多くの者達や世の中に拡げるための目的を持って、

同じ意識をいろいろな肉体を借りながら生きた者もいます。

すべては、神の意図によって、役割を与えられた者達です。

所謂(いわゆる)生き代わり生まれ変わりをして、

此の世に生きている者達の大多数は、嘘偽りです。

ますだはこのことを、よく知っていて質問をしています。 

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神仏との出会い

その良かれと思って、動いている者達の中には、その方が我々(神々)の導きに近いので

、全くの善意で、良いだろうと動いている者もいます。

その善意から動いている者達と、全く同じように指示をして、

伝達・伝搬しているにもかかわらず、そのことの本意は自分の商業的な金儲け、

または地位、名声というところに拠点を置く者達もいます。

わたしは、それらのことを勿論良しとはしませんけれども、

それらのことはこの世の中の退廃とともに蔓延(はびこ)っております。

私が生き代わり、生まれ変わりをした魂や意識は、

他の者たちがこの世の中に生きて、活きて、いきて、

この世の中に繋いでくれています。

神上がっている意識がほとんどで、此の世に残っている意識は一つだけです。

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神仏との出会い

達磨大師の神へ

先般、チベット仏教の高僧で活仏(仏、菩薩、聖僧などの転生者)と

言われる方が来日されました。

この方は達磨大師の生き代わりと言われていますので、

直接達磨大師の神に、それが本当なのか、お聞きしてみました。

「達磨大師の神の生まれ代わりや、ダライラマの生まれ変わりという人々が、

チベット密教にて認定されて生存しています。

これは、どういうことでしょうか?」

出鱈目な伝説を鵜呑みにして、作り上げられた虚構です。

全くの嘘です。

そのことを、ますだは既に分かっているでしょう。

これらの出来事は、伝説に過ぎません。

作り上げた話です。

私の名を騙り(かたり)、または著名な者たちの名を騙り、

その者に仕立て上げて祭り上げ、その行いを褒め称えて有名にする。 

有名人に仕立て上げられたその者が話したことや、

その者の行いによって、世の中が動いていくことを良かれと思っている者がいます。

所謂(いわゆる)でっち上げによって、

人々が騒ぎ立てれば、それは最早(もはや)真実だと、

多数決の論理が働くのです。 

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神仏との出会い

すでにもう、身体は食べ物を受け付けつけることを嫌がっているのです。

それでもなお、食べたくなる欲を、人は持つものですが、

これを止めて、本来の素食な食事に戻して、

細胞が震えるほどの喜びを、あなた方は感じながら頂きなさい。

そして更に、身体が発している信号をよく聞いて、

その信号の元に美味しかったという身体の喜びを言葉で伝えてやれば、

身体の細胞一つ一つは、また喜んで、

心や身体に喜びを返していくという良い循環を作ります。

極めて重要な食力です。

身体が喜びを持って受け取れるように、

食事を少なくして、喜びを持って頂くことです。

なにも栄養が有るとか無いとかは、それほど大きな問題ではありません。  

修練によって、無形の三元エネルギーを常日頃から取り入れていれば、

栄養学は無用の物となります。

そして、世界の食糧は充分すぎるほど有り余り、

飢える者も居なくなるでしょう。

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神仏との出会い

二日か三日に一回、

少々のかゆと素菜(動物性タンパクのない惣(そう)菜(ざい))を、

私はいただきました。

それを一口食べれば、全身の細胞が震えて、

やってきた食べ物を喜んで受け入れようとする身体の細胞の準備の声が聞こえました。

そして、一口食べようものなら、

震えるように吸収していく、そのすばらしさを感じました。

食べ物というものは、こうやって心にしみ渡り、

身体にしみ渡るようにして食べるのが本意であり、

美味しいからといって食べ過ぎたり、何でもかんでも食べたり、

たくさん食べ過ぎたりすることを、身体の細胞が嫌がっている様子を、

あなたは聞くことが出来るでしょう。

食べ物は、身体に活を与えるので、

身体の要求に沿って食べることです。

すなわち、身体の要求の声を聞くことです。

何を食べたいかではありません。

聞くというのは、身体の細胞の声を聞くのです。

私は、なにも蟻の声を聞いたのではアリませんよ。

伝承によりますと、達磨大師は面壁修練の最中、

少室山の麓の蟻の争いの声が雷のごとく聞こえたということです。

身体の細胞の喜びや、悲しみ、苦痛の声を、

耳を研ぎ澄ませて聞くのです。

もちろん、自然の恵みに感謝して生きるとは、

周りに活かされて生きるのですから、

周りの声を常に聞きながら生きるということです。

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神仏との出会い

また、もっと沢山食べたいという要求を持つときには、

肉を喰らいたいということが要求の基本になってきます。 

小食で満足するためには、よく噛むことと、

食べる物が美味しいと思うこと、食べることの喜びを感じること、

食べる物がこれほどにも美味しいと感謝すること。

それらの思いと同時に食べなければ、

身体が食べ物を喜んで消化しないので、これは害になります。

常に食べることを喜んで、慈しんで、

「いただきます」と挨拶をして、

「なんと美味しかったことか!」と喜んで、

「ごちそうさま」という気持ちを持つことです。

形骸的な挨拶をするのではなく、気持ちを込めて挨拶をすると、

食べたことの喜びが一層増すように、

人の精神は構成されています。

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神仏との出会い

動物たちが、無形の意識を持っているということは事実です。

その無形の意識を食らうということは、相手の嫌な意識を食らうということであり、

あまり気持ちの良いことではありません。

ですから、あなた方が疾(と)うに経験している波動の荒い肉を食べたときには、

肉体が受け付けないという肉体上の問題もありますが、

無形の嫌な意識を食らうということこそ大きなトラブルになりうるのです。

集中して、心穏やかに事を運びたいのであれば、

肉を食べることを止めることで、

精神的に穏やかで、集中力が叶うこととなります。

肉体上のトラブルの解決策は、あなたの功法に譲りますが、

この肉を食べることで精神的な問題を発生させることは、

私が経験してきたことだったので、お話をしました。 

植物にも意識はあります。

それなら、何故動物は食べない方が良くて、

植物なら食べても良いのか?

植物というのは、食べられることによって成就するということが有ります。

たとえば動物に食べられてこそ、次に生命を繋ぐこともあるからです。

実と種子を一緒に食べてもらい、他の場所に運ばれて、

糞と共に排出されて、そこで子孫を増やす。

ですから、そういう意味で、マイナスの意思は弱いといえます。

寧ろプラスの意思と言っても良いでしょう。

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神仏との出会い

動物の肉を喰らうと、

自分は無碍に食べられたくはないという強いマイナスの意識を喰らうことになります。

そうすると、精神的な乱れが生じます。

私は、只ひたすら座っているだけですから、

何の乱れも無いように見えて、少々の乱れは座り続けることを苦痛にします。

もちろん、たいした乱れではありません。

多くの者が、肉を食らっても平気なのですから、たいした乱れは生じませんが、

ちょっとしたことも気になる、大きな変化の無い座り続ける毎日の私には、

その猛獣の顔があまりにも恐ろしくて、嫌だなと思い続けていました。

しかし、嫌なのは向こうなのです。

向こうの猛獣も、食べられて嫌だと思っています。

そして、私もこの顔が目の前に出てきては、とても嫌なのです。

そういうことです。

まったく肉を食べないでいると、

穏やかで安らかな修練を続けることができました。

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神仏との出会い

訪中している間、達磨大師の神が、何度も何度もしきりに

「肉を食うな。肉はいけない。沢山食べるな。」

と繰り返されました。

どうして肉がいけないか、食べ過ぎてはいけないのかを問うてみました。

達磨です。

肉はどうしていけないのか?

様々な意見が ありますが、私はこう思うのです。

何年も、ただひたすら修練をしていたときのことです。

弟子が肉を運んできたので、致し方なく食べたのですが、

そうすると、この肉の嫌な顔が目の前に出てきました。

私が食べたのは、猛獣の肉でしたから、

その顔が目の前に現れました。

そして、私に語りかけるのです。

「喰われたくなかった、喰われたくない。」と・・・・。


つまり、猛獣の肉などは、意志をもっているのです。

「もっと生きたかった。なのに、殺されてしまった。おまえには喰われたくは無い。」

、語りかけてくるのです。

そういう話をするのです。

肉には、生きていたときの意識があり、意識は無形のものです。

その無形のものは、影響は及ぼさないのが通常ではありますが、

猛獣たちの細胞の一つ一つには意識があって、

自分の骨肉を食べられたくは無いという意識を持っているのです。

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神仏との出会い

易筋経とは

易とは、交易というように、行き交うようにするということだから、

筋肉中の流れを良くする、血脈をよくして、流れを良くするということで、

達磨さんは、物質的なところから始まったのだけれども、

筋肉、骨の両方を緩めて流す実践している内に、

それだけでは駄目で、無形の気の流れを良くしなければならないということに気がついて、

そこのところも同時にうごかしていたということですか?(増田の考え)

骨が痛いので、骨を動かしても治らず、骨やその血肉を動かしても治らず、

それではどこを動かすと良かったのかというと、気持ちを動かすと気が動いて、

血肉も軟らかくなることが発見されました。

ですから、肉体を和らげるのは、まず物質的な血肉を動かすだけでは出来なくて、

気を使うことが極めて有効であると判りました。

わたしは、動くこと、立ち上がることをしないで、

ひたすら座り続けたので、見つけ出し得たことだろうと思っています。

(増田の意見)

20年前より、私が提唱してきた

「意(i)が動くと、気(ki)が動き、その結果、血(chi=物質としての肉体)が動く」 

という事が、実証された思いです。 


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