その者の与えられた役割や、神の意図によって決められています。
出鱈目なことを言っている場合もあります。
中には何代かの者達の中には、それらの意識を持って後世に伝えたいがために、
同じ意識を使わせた者もいます。
著名人の中には、より多くの者達や世の中に拡げるための目的を持って、
同じ意識をいろいろな肉体を借りながら生きた者もいます。
此の世に生きている者達の大多数は、嘘偽りです。
日之本元極によって開発される数々の潜在能力、功法の原理など
その者の与えられた役割や、神の意図によって決められています。
出鱈目なことを言っている場合もあります。
中には何代かの者達の中には、それらの意識を持って後世に伝えたいがために、
同じ意識を使わせた者もいます。
著名人の中には、より多くの者達や世の中に拡げるための目的を持って、
同じ意識をいろいろな肉体を借りながら生きた者もいます。
此の世に生きている者達の大多数は、嘘偽りです。
、全くの善意で、良いだろうと動いている者もいます。
伝達・伝搬しているにもかかわらず、そのことの本意は自分の商業的な金儲け、
または地位、名声というところに拠点を置く者達もいます。
それらのことはこの世の中の退廃とともに蔓延(はびこ)っております。
他の者たちがこの世の中に生きて、活きて、いきて、
この世の中に繋いでくれています。
言われる方が来日されました。
この方は達磨大師の生き代わりと言われていますので、
直接達磨大師の神に、それが本当なのか、お聞きしてみました。
チベット密教にて認定されて生存しています。
これは、どういうことでしょうか?」
全くの嘘です。
作り上げた話です。
その者に仕立て上げて祭り上げ、その行いを褒め称えて有名にする。
その者の行いによって、世の中が動いていくことを良かれと思っている者がいます。
人々が騒ぎ立てれば、それは最早(もはや)真実だと、
多数決の論理が働く
のです。
それでもなお、食べたくなる欲を、人は持つものですが、
これを止めて、本来の素食な食事に戻して、
細胞が震えるほどの喜びを、あなた方は感じながら頂きなさい。
そして更に、身体が発している信号をよく聞いて、
その信号の元に美味しかったという身体の喜びを言葉で伝えてやれば、
身体の細胞一つ一つは、また喜んで、
心や身体に喜びを返していくという良い循環を作ります。
身体が喜びを持って受け取れるように、
食事を少なくして、喜びを持って頂くことです。
なにも栄養が有るとか無いとかは、それほど大きな問題ではありません。
栄養学は無用の物となります。
飢える者も居なくなるでしょう。
少々のかゆと素菜(動物性タンパクのない惣(そう)菜(ざい))を、
私はいただきました。
やってきた食べ物を喜んで受け入れようとする身体の細胞の準備の声が聞こえました。
そして、一口食べようものなら、
震えるように吸収していく、そのすばらしさを感じました。
身体にしみ渡るようにして食べるのが本意であり、
美味しいからといって食べ過ぎたり、何でもかんでも食べたり、
たくさん食べ過ぎたりすることを、身体の細胞が嫌がっている様子を、
あなたは聞くことが出来るでしょう。
身体の要求に沿って食べることです。
少室山の麓の蟻の争いの声が雷のごとく聞こえたということです。
)
耳を研ぎ澄ませて聞くのです。
周りに活かされて生きるのですから、
周りの声を常に聞きながら生きるということです。
肉を喰らいたいということが要求の基本になってきます。
食べる物が美味しいと思うこと、食べることの喜びを感じること、
食べる物がこれほどにも美味しいと感謝すること。
それらの思いと同時に食べなければ、
身体が食べ物を喜んで消化しないので、これは害になります。
「いただきます」と挨拶をして、
「なんと美味しかったことか!」と喜んで、
「ごちそうさま」という気持ちを持つことです。
食べたことの喜びが一層増すように、
人の精神は構成されています。
あまり気持ちの良いことではありません。
ですから、あなた方が疾(と)うに経験している波動の荒い肉を食べたときには、
肉体が受け付けないという肉体上の問題もありますが、
無形の嫌な意識を食らうということこそ大きなトラブルになりうるのです。
肉を食べることを止めることで、
精神的に穏やかで、集中力が叶うこととなります。
この肉を食べることで精神的な問題を発生させることは、
私が経験してきたことだったので、お話をしました。
植物なら食べても良いのか?
糞と共に排出されて、そこで子孫を増やす。
寧ろプラスの意思と言っても良いでしょう。
自分は無碍に食べられたくはないという強いマイナスの意識を喰らうことになります。
何の乱れも無いように見えて、少々の乱れは座り続けることを苦痛にします。
もちろん、たいした乱れではありません。
ちょっとしたことも気になる、大きな変化の無い座り続ける毎日の私には、
その猛獣の顔があまりにも恐ろしくて、嫌だなと思い続けていました。
向こうの猛獣も、食べられて嫌だと思っています。
そして、私もこの顔が目の前に出てきては、とても嫌なのです。
そういうことです。
穏やかで安らかな修練を続けることができました。
「肉を食うな。肉はいけない。沢山食べるな。」
どうして肉がいけないか、食べ過ぎてはいけないのかを問うてみました。
肉はどうしていけないのか?
様々な意見が ありますが、私はこう思うのです。
弟子が肉を運んできたので、致し方なく食べたのですが、
そうすると、この肉の嫌な顔が目の前に出てきました。
その顔が目の前に現れました。
「喰われたくなかった、喰われたくない。」と・・・・。
肉には、生きていたときの意識があり、意識は無形のものです。
その無形のものは、影響は及ぼさないのが通常ではありますが、
猛獣たちの細胞の一つ一つには意識があって、
自分の骨肉を食べられたくは無いという意識を持っているのです。
筋肉中の流れを良くする、血脈をよくして、流れを良くするということで、
達磨さんは、物質的なところから始まったのだけれども、
筋肉、骨の両方を緩めて流す実践している内に、
それだけでは駄目で、無形の気の流れを良くしなければならないということに気がついて、
そこのところも同時にうごかしていたということですか?(増田の考え)
それではどこを動かすと良かったのかというと、気持ちを動かすと気が動いて、
血肉も軟らかくなることが発見されました。
ですから、肉体を和らげるのは、まず物質的な血肉を動かすだけでは出来なくて、
気を使うことが極めて有効であると判りました。
ひたすら座り続けたので、見つけ出し得たことだろうと思っています。
20年前より、私が提唱してきた