真実


私の知り合いに「おおや」さんという人がいます。

普通、「おおや」さんは、大家か大屋、大谷などと書くのでしょうが、

この知り合いは「大爺」さんと書くのです。

別の知り合いが、この字を見て

「えっ~、おおやって読むの?全然読めなかった。」と言うと、

ご本人は、「北海道の洞爺湖の や ですよ。」

と言うので、私が

「本当は、おおじじい と読むのですよ。」

と言ったら、その場は、大爆笑になりました。

洞爺湖の「トヤ」とは、

アイヌ語で「湖の岸」という意味だそうです。

当て字ですね。

これ本当の話ですよ、作り話ではありません。

補足しますと、大爺さんは、年金生活者です。

真実

野口悠紀雄氏が、著書の中で、言っています。

他からの信頼や社会的評価を落とせば、大きな損失を被るという状況が必要である。
逆に言えば、「失うべき何物も持たない」人々は、信頼を裏切る可能性がある。
なぜなら、それによって利益を得る反面で、失うものは何もないからである。
相互信頼とは、「失うべき多くのものを持つ人々の集まり」でこそ形成されるのだ。・・・・・・・・##2

この部分の野口さんの意見には、異論があります。

先回、人にはすることの出来ることは何でも許されており、自由である。
しかし、その自由にはその者の持つ倫理によって、ブレーキがかかることを書いた。
その倫理とは、人の倫理ではなく、宇宙の倫理が働かなくてはならず、
その宇宙倫理のブレーキを踏む行為をさせないのが、人の欲なのだ。

野口さんは、倫理のブレーキが「失うべき何物も持たない」人々では踏めないといっているのです。

私は、そんなことはないと思っています。
失う物をいっぱい持っている者でも、倫理観の低いものもいれば、
何も持たない者でも宇宙倫理にかなっているものも居ます。

野口さんは、「現代の社会常識的な判断基準=損得」に冒されていると思います。
本来の基準は、「善悪」であるべきなのです。

全ての者が、何も持っていないという認識で生活すべきなのです。
それを、これは私の物、あれは貴方の物とするから、欲にまみれ、物や地位、名誉などを手放せなくなります。
そして、「自由を侵された。」と言って、本来歩かなければならない道から外れるのです。

天地の中での自由とは、そのことばの意味とは裏腹に、何でも出来るその環境下にありながら、
すべてのものを手放して本来通らねばならないたった一つの道(タオ)を選んで進んでいけるかどうかということなのです。

真実

野口悠紀雄氏が、著書の中で、言っています。

「自由な市場」とか「競争社会」とは、「何をやっても自由な社会」ではないからだ。
市場経済は、強いルールの下でしか機能しない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・##1

ここでは、狭い範囲のこととして述べられていますが、人の生き方も同じことなのです。
人は、自分で選択決断し、行動すればいろんなことが出来ます。
出来ることは全て、天地に許されていて自由なのです。

ひたすら食べ続けることも、守銭奴となることも、殺人も、他人のために我が命を投げ出すことも、
みな許されています。

やって実現可能なことはみな許されているのです。

人の出来る事は、全て天から許されていて自由なのです。
しかし、その自由の中で何をするかが問われています。
出来るから、何をしても良いというのは、本当の自由ではありません。

人を殺(あや)めることは可能だとしても、ほとんどの人には倫理的に出来ないことでしょう。
この倫理的には、ということの意味は、人としての倫理なのです。

人の倫理と、宇宙=天の倫理は大きく違うようです。

永遠の存在として、人の意識が残ることを許されるためには、天の倫理に自分の倫理を合わせなければなりません。
宇宙の中で存続するわけですから、宇宙の法則に合わないと存続は認められないのです。
我々の居る3次元物質世界では許されていても、上の次元では許されないことはいっぱいあります。

欲が自由を主張します。

昔の人々も判っていたのでしょう。
「六根清浄」
と言って、欲を絶ちきろうとしてきたのです。

こうした行為について、心なき人々は、

「自由を束縛する」、「拘束することは、悪だ」

と、自らの欲を隠そうとするのです。
正当化しようとします。

でも、それは自らの存続(肉体の存続ではありません。顕在意識の存続です)を、自ら諦めることなんですよ。

真実

野口悠紀雄氏が、著書の中で、次の様に述べています。

自由な論議とルール遵守の両立は、大変難しい。
 ところで、私は、インターネットに簡単に公共圏が構築出来るとは考えていない。
(別項で、同氏は、「公共圏」について、次の様に説明しています。
:ドイツの哲学者 J・ハーバーマスが提唱した概念。
これは、個人の私的な領域を超えた共通の関心事項について、言論や意見が行き交う社会的な共通空間のことだ。)
なぜなら、

「自由な市場」とか「競争社会」とは、「何をやっても自由な社会」ではないからだ。
市場経済は、強いルールの下でしか機能しない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・##1

同じことが、言論についても言える。
 私は、「ウェブ上の自由な意見の交換」に幻想的な期待を抱いているわけではない。
むしろ逆に、インターネットにルールを確立するのは極めて困難だと考えている。
とりわけ問題なのは、匿名での発言が可能であるため、無責任な批判や誹謗や罵倒が横行しやすいことだ。
だから、インターネットにそもそも公共圏を形成しうるかさえ、定かではない。
例をあげよう。
東日本大震災の直後、私は、「ダイヤモンド・オンライン」の連載で
「電力不足に対処するために電気料金に課税するべきだ」との主張を行った。
そして、それに対する意見を、私のホームページに寄せてほしいと書いた。
多数の意見をいただき、その中には、非常に有益なものがあった。
しかし、心ない反応もあった。
たとえば、「経済学者は、カネ勘定のことしか頭にないのか」との非難もあった。
「業界の事情を知らないので、笑ってしまった」というのもあった。
これは、意見や批判というより、「口汚い罵り」としか言いようのないものだ。
こうした反応に接すると、本当に「こたえる」。
そして、仕事に対する意欲を失う。
強い反論は、特定の業界の既得権を批判した場合に来る。
どの業界を批判した場合にどのような反論が来るかは、はっきりした傾向がある。
口汚い罵りを受けて、数日間仕事が手に付かなくなることさえある。
「艱難汝を玉にす」「人間は鍛えられて強くなる」というが、実際には難しいものだ。
私は、「批判を受けたくない」と言っているのではない。
しかし、論争には一定のルールが必要だ。
ルール違反は出版物にもあるが、完全ではないとはいえ、編集者のチェックがかかる。
それに対して、ウェブでは、最低限のチェックすらないのだ。
「市場経済は、相互信頼がないと成立しない」と述べた。
では、信頼の基礎は何であろうか?
もちろん、人間の本性が善を求めるものであることだが、それだけではない。

他からの信頼や社会的評価を落とせば、大きな損失を被るという状況が必要である。
逆に言えば、「失うべき何物も持たない」人々は、信頼を裏切る可能性がある。
なぜなら、それによって利益を得る反面で、失うものは何もないからである。
相互信頼とは、「失うべき多くのものを持つ人々の集まり」でこそ形成されるのだ。
・・・・・・・・##2

問題は、インターネット空間が、そうした条件を満たすコミュニティなのかどうかである。

この中で、注意していただきたいのは、##1と##2の部分です。
次回から、一つずつお話しします。

真実

先日来より、関東地方からいらっしゃる何名かの修練者をみて、憂慮するものがありました。
皆一様に、体調が悪化しているのです。

ご本人も感じている方も何名かいましたし、我々がみれば、その総ての人がおかしいのです。
それなりに修練をなさっている方々もです。

その中の多くの人が、「気功点穴整体」を受けられました。
その時、一様に肺の上をさわり、気を入れると、咳き込むのです。

強く押している訳ではありません。
触っているだけです。(膨大な元気・元光が注入されてはいますが・・・)

これは、入れられた元気・元光エネルギーが、無形の放射性物質を排出するからです。
この数ヶ月の短期間でもこの結果ですから、この先東京近辺、関東以北には住む事は危険でしょう。

私が随分前から体感して、皆さんにお話ししているとおりです。
関東在住の方は、一刻も早く移住すべきです、いわんや東北の方々をや。

政府は、多くを隠しています。
下の画像をご覧下さい。


http://www.youtube.com/watch?v=Hx8BMx09Ie8&feature=related