日之本元極功法

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その1)

道教と仙学 第2章
4、南北朝の道教の改革と成熟
 東晋後期から南北朝にかけて、全国的に道教の改革が進んだ。新しい道派が次々に現れ、中国道教は著しく発展した。北朝の寇謙之は太上老君の命に仮託して道教を整理し、新天師道を建てた。彼は漢朝の制度を模倣した早期の天師道の形態を改変して封建政権との関係を調整し、天師道を教会式の宮観道教に移行させた。南朝の陸修静と陶弘景は、先の天師道の改革を受けて三洞経書をまとめ上げ、霊宝派と上清派を教会式宮観道教へ成熟させた。

 (1) 寇謙之の天師道の改革

 寇謙之(365~448年)は関中馮翊の士族の家庭に生まれた。天師道の世家の子弟でもあり、早くから道を慕い、長生術を修行していた。姚秦の時に仙人の成公興に付いて崇山に入って修練し、石室に隠れ住み、服食採薬をしていた。記録によると、7年後に成公興は尸解して昇天したが、寇謙之はたゆまず修行を続けた。姚秦の弘始十七年(415年)、その真摯さに打たれた太上老君が山頂に現れ、寇謙之に天師の位を授け《雲中音誦新科之戒》二十巻を賜った。太上老君は「私を広く知らしめ規律を新たにして、道教を整理し、三張偽法・租米銭税および男女合気の術を除去せよ。大いなる道は清く虚ろであるのに、どうしてこのような事があるだろうか。礼を意に介すことを第一とし、そしてこれに服食閉煉を加えよ」(《魏書・釈老志》)と彼に命じた。寇謙之が老君から授かった《雲中音誦新科之戒》は、現在の《道蔵》の《老君音誦戒経》であるが、現存しているのは一巻だけである。寇謙之はこれによって大々的に天師道を改革した。天師道の道官の世襲制を廃し、「才能のある者を選んで隠さず教える」という師弟制を採用した。教えを守っていくという世襲制の長所を留めながら、教主・道官の子孫が愚劣になって「道の教えが曖昧になっていく」弊害を避けようとした。また、彼は北方で道官が依然として用いていた蜀土二十四治の号の旧例を廃止し、道官や祭酒が任意に人から金銀財貨を取り、非現実的な規定が氾濫し、図書や仙方を偽造するといった混乱状態を改善した。彼は、天師道を神仙道教に沿って発展させた。寇謙之が新しい教義の中で最も重視したことは道戒を奉じ守ることだった。彼は道教の戒律を増やし、天師道の道戒と儒家の倫理規範を一つにしたが、これは朝廷が封建制度の秩序を維持していくための道具となった。そのほか、寇謙之は、無闇に房中術を伝え教団の気風が淫猥になることを防止し、斎礼拝などの宗教活動を強化するために礼儀手順を詳細に規定した。これによって天師道の宗教性は向上した。

 天師道の改革が順調に進みだした北魏の明元帝泰常八年(423年)に、老君の玄孫の牧土上師李譜文が寇謙之の真摯さに打たれて崇岳に現れた。彼は寇謙之を仙人に名を列ねさせて《図録真経》六十余巻を授け、北方太平真君に彼を輔佐させた。寇謙之は《図録真経》(今はすでに散逸)の中で道教の神仙の系譜を新たに編纂し、諸神の壇位・衣冠・礼拝儀式にも格付けをした。これは実際には世俗の士族の階級制を神仙の世界に投影し、道教の倫理に封建制度の倫理を持ち込んだものである。また、彼は「劫運」説などの仏教思想も取り入れ、予言を行い、道教の国教化を推進した。彼は天師道の財源を変え、三張の「租米銭税」制度を廃し、士族や朝廷の援助によって道館を建てた。朝廷の命令によって館戸(つまり道館で労役に服する隷戸)に「道正」を設け、道教は政府によって管理されるようになった。道館は、北方では観とも呼ばれ、大きいものは宮と呼ばれた。道士は最初は山洞のそばに家屋を建てたが、のちに都市にも道観を建て、南北朝の時代には「館舎が林や薮のあちこちにある」といった状態になった。これは後世に教会式の宮観道教に発展していった。

 寇謙之は天師道を国教にするために「帝王の師になる」ことを考え、《図録真経》を携えて下山し、新しく即位した魏の太武帝の拓跋に身を寄せた。はじめのうちは太武帝は寇謙之を重視せず、朝廷や在野の士族たちもその言葉に対して半信半疑だった。儒学の世家の出身で官僚だった崔浩が寇謙之と交わりを結ぶようになると、崔浩は皇帝に寇謙之を推薦した。《図録真経》を神聖化することは、中原の支配者になるという拓跋の野心に迎合していたので、拓跋は寇天師を崇めるようになった。天師道の道場が首都の東南に建てられ、《図録真経》は広く人々に知られるようになり、寇天師によって新しい道教が盛んになった。魏の太武帝は大夏に兵を進めようとしたが(423年)、北方を統一する戦争に対して軍の指揮者はおじけづいてなかなか同意しなかった。しかし、寇謙之は太武帝に「必ず勝つ」と予言したので、魏の太武帝は自信を持って鮮卑の騎兵を率いて次々と大夏・北燕・仇池などを滅ぼした。これによって北方は統一され、五胡十六国の争乱は終結した。戦争中には崔浩と寇謙之は軍に随行して功を立てた。北魏の拓跋は鮮卑が黄帝の子孫であると称して積極的に漢文化を学び、世家大族の漢人を登用し、天師道を発展させた。西暦440年、寇謙之は拓跋のために福を祈り、高潔なものを感じて「太平真君」の号を授け、年号を太平真君元年と改めさせた。また、太武帝は天師道の儀式に従って道壇で道教の符を受けた。寇謙之以後の天師道は道士に対する受の儀式を非常に重視し、「」は道士の証明書となった。弟子は受の前にまず道教の戒律や護符などを受け、それから正式な天師道徒になることができた。これ以後、天師道は北魏で盛んになった。皇帝が即位する時に道教の符を受けることも定例となり、元始天尊や諸々の神像も奉じられるようになった。かくして、天師道は北方の上層社会でその地位を強固なものにした。

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張道陵(ちょうどうりょう)の神について、歴史上に残っている資料によって、人類にどう貢献してきたのかお伝えしました。続いて寇謙之(こうけんし)の神の貢献を伝えます。

寇謙之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寇 謙之(こう けんし、Kou Qian Zhi、365年 – 448年)は、中国・南北朝時代(北魏)の道士。字は輔真。道教を組織し、儀礼を定めた。上谷郡昌平県(現在の河北省の東北部で、北京郊外にある)の出身。北魏の河南公・寇讃の弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の末裔を称した。

若い頃から仙道を好み、張魯の術を修め服食(神仙になるための薬を飲む)すること数年たった頃、仙人・成公興に出会い、華山をへて嵩山に伴われ十年修業を積む。414年のこと、太上老君が天より降り、寇謙之の修業の熱心なことを賞して天師の位を授け、『雲中音誦新科之誡』20巻を与え、「三張の偽法、租米銭税や男女合気などの妖術を一掃すべし」と命じ、服気導引口訣の法を授けたという。

423年に李譜文から『録図真経』60余巻と鬼神を駆使する法、金丹雲英八石玉漿の秘法を受け、翌年に北魏の世祖に書を献じたが、宰相の崔浩が特に寇謙之に師事し、さらに帝に勧めて都・平城の南北に天師道場を起こさせた。五層の重壇にして120人の道士を仕えさせ、一日6回の祈祷を行わせる。世祖は非常にこの天師道を尊崇し、自ら「太平真君」と称し、仏教を排斥するようになった。442年に世祖は道壇に登って符録(道士としての資格の一つ)を受けた。

寇謙之は仏教の戒律などを参考にして、「雲中音誦新科之誡」をさだめた。さらに修業の段階に応じて資格を与え、師弟の関係を秩序づけ、道教の組織を寺院・教会のように確立した。中国北部における道教は、以後の王朝によって国教に準ずる扱いを受け、唐代以降の隆盛を準備するのである。

つまり道教の歴史は、太上老君(老子)に始まり、その力を神となった老子より、授かった五斗米道(天師道)の張陵、新天師道の寇謙之等が神上がり、太一道の簫抱珍に発展伝達していったものである。
 (つづく)

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同じく張道陵について、三省堂 大辞林と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』よりご紹介します。


出典: 三省堂 大辞林

ちょうりょう ちやう― 【張陵】
中国、後漢末の道士。道教の源流とされる五斗米道(ごとべいどう)(天師道)の創始者。蜀の鵠鳴山で修行して符書を著す。後世、天師と称された。張道陵。生没年未詳。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2007/06/07 08:47 UTC 版)

張 陵(ちょう りょう)は、中国における原始道教の一派である、五斗米道(天師道)の開祖である。

沛国豊(江蘇省)の人というが、その伝歴には不明な点が多い。また、一説では張 道陵(ちょう どうりょう)と称しているが、後世の付会であろうとされる。

蜀(四川省)へ行き、鶴鳴山(鵠鳴山)に入り、「仙道」を学び、「道書」24編を撰したという。

彼の教法の中心は、祈祷を主体とした治病であり、信者に5斗(日本の5升=9リットル)の米を供出させたことから、五斗米道という呼称が生まれた。

張陵の伝記は、晋の葛洪の手になる『神仙伝』に詳説されているが、多分に潤色を加えられた形跡があり、彼よりも後世の五斗米道の教説も混入している。

その教団は、子の張衡、孫の張魯へと伝わり、広まった。張陵を尊称して「天師」と呼び、子孫は龍虎山へと移住し、道教中の一派である正一教となった。

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先回、突然出てきました張道陵(ちょうどうりょう)の神について、各所にて知らされている資料をご紹介しましょう。

漢代末期、張陵(張道陵)は、「五斗米道」を現在の四川省青城山にて開きました。

三国志小辞典より
張陵Zhang Ling チョウリョウ (34?~179?)
漢徴士
字は輔漢《張魯伝集解》。沛国豊の人。張魯の祖父、張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される《張魯伝集解》。

建武十年(三四)、呉の天目山で生まれたという。さまざまな書物を習い、もともとは大儒学者であった。直言して諫めたため、江州県令に左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した。章帝が博士の官職を用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝が即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯伝集解》。

淮水を渡って鄱陽に入り、龍虎山に登って天の精気を一身に集めた。神秘の源を探して西方に行き、壁魯洞において「制命五岳摂召万霊及神虎の秘文」を発見し、そこで嵩山の石室に行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた《張魯伝集解》。

そうして道術を極めたが、巴蜀に名山が多く、また病気が流行して人々が苦しんでいると聞き、順帝の御代、蜀に仮住まいした《張魯伝集解・後漢書劉焉伝》。初めは陽平山に居を構えたが、のちに鶴鳴山に移り、そこで玄元老君(老子)の神秘的な声を聞いて、経典の奥義を授かった《張魯伝集解》。

『三国志』張魯伝では「鵠鳴山」とあるが、『後漢書』『水経注』では「鶴鳴山」、『太平御覧』では「鳴鵠山」とする《張魯伝集解》。

こうして身体を分解して変化を現し、『道書』二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖は二十四気に対応する二十四の祭壇を作ったので、王となって天下を領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀を行い、土の祭壇と草の屋根を設けて「二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気は減っていった。塩水の湧く井戸を発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない《張魯伝集解》。

永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まいを移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績を評価し、「天師衡使」の印を授け、代々受け継がせることにした《張魯伝集解》。

熹平年間(一七二~一七八)の末期、張陵は大蛇に呑み込まれて姿を消した。子の張衡は駆けずりまわって父の亡骸を探したが見付けることができず、そこで霊験を現して鶴に変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日に昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」との遺書を残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった《張魯伝集解》。

建武十年に生まれ、光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算が合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯伝集解》。

彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである《張魯伝・後漢書劉焉伝》。

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元極功法は、太一道から判るように道教を大きな柱としてはいますが、仏教、儒教、その他諸子百家の良い所を取り入れ、悪い所を排して常に発展し続けています。

そのことは、伝えられ、守り続けてきた厳しい掟に秘密があります。

「後代に代々嫡伝、外部に漏らすことなく、密かに修行を積み、その創新と突破に努めること、更に縁のある大徳の士にあらずんば、功を伝え、秘訣を授けること固くまかりならぬと戒め、同時に門派の見を捨て、万方に親和し、長を取って短を補うべしだと諭された。秘伝を受けた者は、固く元極の戒律を守るべきで、破戒の者に対しては、その功果を追奪して破門に処すべきだと言いつけられた。」

太一道の始祖、簫抱珍(しょうほうちん)は、今でこそ神になっておられますが、肉体を持っていた開組のときには、寇謙之(こうけんし)の神や、張道陵(ちょうどうりょう)の神よりご指導を受け、太一道を起こされたのです。
 (つづく)

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日之本元極は、講座の中でも度々ご紹介している通り、「中国元極学」よりその効能を受け継ぎ、現代日本に、より受け入れられるよう、功力を強め、修錬時間の短縮や、グッズの開発などの工夫を凝らしています。

今回、中国の神々や、元極功法に纏わる掌門人の方々のお招きにより訪中して、元極功法の源流に触れることが出来ました。
それらのほんの一部をご紹介したいと思います。

「中国元極学」は、元を辿れば、明の時代、普善禅師が改良し起こした「元極道」を張志祥先生が一般に公開したものです。

元極道は、「西夏・南宋」の時代、「金」より「元」に移る頃、一悟真人簫抱珍(しょうほうちん)により起こされた「太一道」を起源としています。しかし、中華元極学では、その先を明らかにしていませんでした。

今回の訪中では、その先の大本に触れることが出来たのです。
 (つづく)

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9月20日(日)から23日まで秋分特別講座が開かれます。
講座内容は、日之本元極ホームページにて公開されています。
今回の秋分講座は、年数回しか行わない特別講座の中でも、特別中の特別。
超(張かもしれない)スペシャル講座になります。

その根拠は、今回の講座直前に中国に呼ばれたからです。
中国の神々と、代々の掌門人の方々からです。

六日間の滞在の後、始めて開催する特別講座ですから、今回以後に開催される同じ特別講座をお受けになるのとは桁違いに違います。今回の受講を第一優先にして受講ください。

特に、7、8月に「階ふた」講座をお受けになった方々が、「階ふた」伝訣講座を受講なさいますことをお勧めいたします。

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昨日夕方、「階ふた」講座の最中、約1時間以上もに渡り、先日お伝えしたような「きつねの嫁入り」がありました。

青空が見え、日が照っているにも関わらず、こんなに長い時間の且つ強い「天気雨」は珍しいことでしょう。

直感的に、「これはただ事ではない。」と思いましたが、講座中(「階ふた」の講座は、全10時間すべて増田が担当します)でもあり、そのまま終了するまで様子を伺いながら、話を進めていました。

本日全ての講座が終了した後、その意味をお伺いしましたところ、新宮神社に「さいはい」に関わる多くの神々(400柱弱)がお入りになったということでした。

「さいはい」とは何か、何故そんなに多くの神々が新宮神社にお入りになったのか等は、神界の秘奥ですから、明かすことは出来ません。ご縁有る方々は、出来ることなら新宮神社に御参拝いただきますように。


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昨日、今日(7/19,20)と二日間にわたり、二年ぶりに開催される一連の「階ふた」講座の先頭を切って、高山新宮での講座が終了しました。
流石に難関である諸条件を克服してここまで登り詰めてきた方々だけに、終始緊張感を切らさず、且つ和やかに講座を進めることが出来ました。

今回、新たに加わった「日色月香」を含め教科書もA4版170頁ほどと大部になり、受講者も、次から次へと新しいことを頭に詰め込むのに大変だったことでしょう。

しかし渡された力も大変な大きなモノを渡された訳ですから、今後更にその力を活かすべく、ご努力いただきたいと思っています。

引き続き、今月来月中に、東京、宮城、名古屋でと開催されますので、高い功力を持った修練者仲間が数多く出現することに感謝と祝福をしたいと思います。

これだけ多くの「階ふた」修練者が誕生したのですから、「階み」講座の開催もそんなに遠くないと思われます。スタッフ一同も追いつき追い越されないよう、更なる養徳と修錬の積み重ねに励もうと、心を新たにしています。

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