沖縄での移動はまだ続きます。
読谷村(よみたんそん)の後に、沖縄市(旧コザ市)に行ってください。
沖縄市には、嘉手納基地があります。その塀に囲まれた内は、異国の地です。
その塀の側を通り、時をさかのぼって塀の中に意識を飛ばせば、貴方がする「祓い清め」の力を、我々が他の国に拡げるということをします。
あなた方、日之本元極の力を日本から世界に拡げるという影響、日本が最後の陸地となるという影響も、ここから塀の中に及ぼして拡大し、世界に我々が影響をさせます。
神様、本当ですか?
日之本元極によって開発される数々の潜在能力、功法の原理など
この地の人々の、陽気で、のんびりした気質を神は言及されました。
しかしながら、戦争の傷跡は生々しく、この地には、争いごとの歴史が耐えません。古くは、この地の穏やかさを奪い合う戦争が起き、新しくは、昭和の戦争の爪痕が深くふかく、残っています。
長い間の戦争の歴史が、異国の者の占領下に置かれた悲しみがあります。
ここを祓い清める事で、異文化占領のもと、悲しみ、あえいだ多くの意識も浄化されます。
読谷村の歴史が、展示されているこの資料館に良く来てくれました。
ここは、静かです。
誰もいませんので、ここに来るように、誘いました。
この地を、祓い清めなさい。
これらの歴史に、まつわる神々、文化にまつわる神々が、すべて貴方に協力をします。沖縄の地だけではなく、この文化にかかわる総ての神、過去にさかのぼって、土着、農耕、文化衣料、医療、食文化にかかわっての力を持つ神々です。
ここに、神々が集っています。
下黄庭にある三元を働かせるため、上黄庭に上げなさい。
そして、この地を総て想念して、祓い清めて下さい。
「読谷村に行きなさい。」といわれました。
なぜ、読谷村に行くのですか?
読谷村は、とてもきれいなところです。そして、悲しみが渦巻くところです。
些細なことから争いが起き、争いの歴史が繰り返されているところです。民族と民族の争いが度々繰り返されて、悲しみがあふれているところです。読谷村に来てください。
座喜味城跡に、来てくれたこと嬉しく思っています。
古いこの時代海に面したこの読谷村の浜辺は、貴重な資源でした。この地区の者達は、呑気に陽気に、その日暮らしのような気性を持って、踊り明かし、飲み明かし、というような陽気さと楽しみを共有するような人情あふれる、地域でした。
従って、この地は、すでに貴方が感じているように、齷齪(あくせく)しない、のんびり、おだやかな 地域性があります。
そのことは、この地域の特性として重要なことなのです。
神は続けます。
これをきっかけとして、全国の晴れない思いを晴らしていきたいと思います。
貴方が、今考えている「思索・想念が、邪気としてたまるのであれば、『清める』という強い意志を持って歩けば、末性は、清められるのではないか?」という事、まったく、その通りです。
あなたに、この沖縄の地に来てもらった意味は、まさにそのために来てもらったのです。
一度も尋ねたことのない沖縄の地に来てくれました。この地を今後は、本当に晴れ渡る地にしてください。
これからのことを考えて、今を精算します。今を精算するということは、過去現在、未来にかけて精算をするということになります。これから起きることも瞬時に精算するということです。その場にしがみついているような邪気を残さないで祓う。「全ては葬られる」そのことを開始します。
今後は、夥(おびただ)しい数の生、死にかかわる事柄が起きてきます。にもかかわらず、意志・想念がこびりついていては前に進みません、過去・現在・未来にかけての祓い清めが始まります。
八月初め(2009.08)、沖縄斎場御嶽(せーふぁうたき)に呼ばれ、祓い清めをせよとのこと。
2007年夏に一連の次元上昇の変化として、地獄が消滅し、霊の存在がなくなりました。
霊の存在が無くなって、霊が総て祓われ消滅したはずなのに、どうして、想念だけが残っているのか?疑問が残ります。斎場御嶽の神が答えます。
人の生きているときの意志の固さや、思いがけずに起きた事柄によって残された無念の意志、それらは大いなる邪気だと考えてください。
邪気、濁気、末性、そういうモノがそこの地に、掃きたまっています。そういうものだと考えてください。精神的な、末性がどれほど強いかは、すでに知っていることだと思います。
そういうモノが、風雪を耐えても、なおその場にたまっています。そういうモノは、我々が手伝わなければ、つまり、場創り(良い空間を作る)を担当するような神々が、あなた方に随行して成し遂げなければ難しいことです。
雨・風と共に(この時、台風8号が沖縄を通過中であった)、邪気を吹き飛ばして、あなたのそこへの訪問とともに、無念の気持ちを晴らして、邪気を祓い、心を穏やかにしていきたいと考えているのです。あなたにとっては、不運な天候となりましたが、この雨、風がなければ、無念の気持ちをはらせないほどの末性がたまっているのです。