ガソリンがなくて、開店休業のガソリンスタンド
ずらりと何キロも並んでいるガソリンスタンドに並ぶ車。
日之本元極によって開発される数々の潜在能力、功法の原理など
昨年、東尋坊へ負の想念を祓いに行き、ブログにそのことを書きました。
そうしたら、今頃になってほんとに想念が祓えているかどうか、確かめに行った奴がいました。
HIROHIRO と言います。
性格悪いよなぁ!!
どうして救う役割と、日之本元極を拡げる役割を別にしないで一緒にしたのか??
そんな疑問が我々にも湧いてきます。神に質問してみました。
二足のわらじを履く事が辛いからの質問ではないと分かっています。
神の導きを受け、日之本元極を大きくしていくことが、どれほど真実の道を歩くという意味で大切なことか。
功法を拡げていくことで、試練が与えられて、修練を乗り越え、試練を乗り越えて、努力した先に、救える意識が存在します。
その構図が日之本元極では、課題として与えやすいのです。
どうしてかといえば、兼務する以外に、多くの意識を救う為の良い策が無いからです。
試練を与えられる → 修練をして乗り越える → 試練を与えられる → 信じて修練をする。
このことが、延々と続くのです。
試練、しゅうれん、試練、修錬、しれん、修錬・・・・・・・
顔がヒクヒクと、けいれん しております。
沖縄を祓い清めた事の意味を、神が伝えています。
ここ沖縄の祓い清めを始まり(祓われる事の形示し)として、全世界のこびりついた、染みついたような無形の想念は、今後徐々に全て祓われていきます。
あとには、地球上に物質的な汚れが残ります。それをどう祓うのか?
実は、それを祓うためには、全てをゼロから作り直すことでしか、祓われないのです。それが次元上昇の意味です。
無形の世界の汚れは、取り祓われることが可能です。
他方、物質的な汚れは、無形のもので囲って、汚れから逃れるということは、ある程度有効です。
けれども有形の汚染物は、浄化するには、あまりにも多すぎます。
地球が循環している限りは、地球の汚れは積み重なるばかりです。積み重なった汚れは、地球の浄化の域を超えて、汚れる一方の地球となっています。これが、定期的に行われている次元上昇だったのです。
その時までに、二極化された意識を、残り限られた時間の中でどれだけ救っていけるかということが、あなたがた日之本元極の役割です。
沖縄から高山に戻り、暫く経った頃、また斎場御嶽(せーふぁーうたき)の神よりお声が掛かった。またまた何用かと思いきや、下記のような内容であった。
先日は、わざわざ沖縄に来て、われわれの もとを 訪れてくれたこと 本当に喜んでいます。現在の斎場御嶽では、とても心地よい風が吹いています。これほどの心地よい風は、眠っている間にも 感じたことがありません。
必ず、再びこの地に来て、我々と共に、陰の神のいる「久高島」に行って、陰の神の処遇を決定する仕事をしてください。再び貴方に会えるときが来ることを喜びにしています。
何故われわれがいる神の聖地を、斎場としたのか?についてですが、補足的に説明をしておきます。
それは、われわれがこの地に着いてから、眠ってしまったからです。
我々が寝てしまっていても、ここが威厳のある場所であると判った者達は、この斎場御嶽を威厳のある、格式の高い、大切に囲い込み残す、重要な土地として祭るために、何が最適であるかと考えたときに、斎場を選択したのです。
そうして、人があまり多くは立ち入ることが出来ない、多くの者が立ち入って、汚すことをしない場所として、斎場を祭りはするけれども、多くの者が来れずに、汚すことが出来ない場所として、格好の土地の活用方法だとおもったようです。
その斎場として使われることを、我々は許し、眷属達もそれに従い、現在に至っています。
沖縄に呼ばれ、その地の想念を祓う事は、どんな意味があったのか、神が語ってくれました。
遠く南国の地に行って、人の想念は祓われました。しかし、これを期に最後の一時を迎えるまで、想念が祓われ続けることになります。
人の想念の重さや、まつわりつくようなその粘質性の重みが人の心を解放せず、覆い被さるような呪いのように、想念がまつわりつくことがありました。
人の行いが悪いと、同じような波動となり、同じような波動に感応してしまうことがありました。けれども、想念が祓われると、人の思いは影響されることが少なくなります。
解放されて、思いの通りに生きることの出来る、希望に満ちた気持ちになる人もいれば、感応されることが無くなった想念は、軽く軽くなるので、人として命を全うできずに、消え去る想念もまた、あります。
一段と両極端に振り分けられる。自分の思い、魂の導き、それらが一段と受け入れ易くなります。良い者はよい。悪い者は悪い。と、いうはっきりとした区分けがなされるようになります。
けれども、どんな状況であれ、顕在意識がより良く生きようとするならば、チャンスは与えられます。それは、今まで通りのことです。
今回、ここが祓われたことによって、想念に影響されずに、救われる意識が増えたと言えます。
沖縄の戦火の傷跡は、すさまじいものがあります。戦後60余年のいまでも、その想念が渦巻いていたのです。私は沖縄に始めて訪れたのですが、これほどのモノとは思いませんでした。
私の元に、今二十歳になる修練者がいますが、彼が高校の修学旅行で沖縄に来て、三日間何も食べる事が出来なかったという話が、ようやく実感として伝わってきました。
ここの神のお話しです。
なまめかしい思いを持ちながら、この世を去ることを余儀なくされた、乙女達の無念さをここに凝縮してあります。乙女達の、女性の思い、平和に対する祈願するこころ、女性の失意、念願叶わぬ期待の気持ち、それらがここに集まっています。なまめかしい思いとはまさに、その通りの思いです。
仲間も大勢死にました。この地で、多くの仲間達を青春の日々を過ごした少女、無念の意志を持ったまま、はらすことが出来ない強い念があります。ここで今、あなたが祓ったのは、私たちの意識(神々の、地上を清浄な場に変えたいという意識)だけではありません。
戦火に焼かれて、諸肌脱いで、死んでいった多くの女性達の意志です。
歴史の中で、女性は道具として使われてきました。性的な道具としても、女性は利用されてきました。
そして、このことは、過去・現在・未来を通じての出来事であるということを、念には念をいれて、伝えておきます。
斎場御嶽(せーふぁうたき)に続いて、平和記念塔に来ました。
駐車場から歩いて、建物に入って数分経つと、ものすごい勢いで雨が叩き付け、風が吹き荒れ始めました。
山川を超え、堪え忍び、恐怖の中を逃げまどい、生死をさまよい、死ぬことを覚悟した者達の多くの戸惑いや困難、無念な思いがここに集結しています。自ら命を絶った者が、なんと多いことか。
何処の戦争においても、仕方なく命を絶った者が戦場には多いものです。しかし、ここの特徴は自らすすんで命を絶った者が、多いということです。そのことの無念さが、ここに呼んだ理由です。
戦争でおおくのものたちが死んでいます。原爆で数知れない命も奪われました。それでも、沖縄の悲惨さは、言うに耐えないほどです。死の恐怖を感じながら、死ぬことを選択せねばならなかった者達の思いは、この地に凝縮しています。
この思いを払拭してください。
強く、祓う意識を持って、この地を歩いてください。平和記念館は、それほど意味のある施設ではありません。貴方が歩きながら、祓い清めてください。
お話を聞き終わり、施設を一巡して出ようとしたときには、風雨はピタリと治まっていました。