元極功法


太一道は、「おふだ」を、重要視したとされています。

開祖の蕭抱珍(しょうほうちん)は、300階余の「おふだ」を残したと伝えられています。

しかし、中華元極功法の中には 「おふだ」は一切使われていませんので、
普善禅師の時には、それは使われていたのかという疑問が残るところでしょう。

前述しましたが、普善禅師は、それまでの功法を一新しようとしていましたので、
「おふだ」の類はあえて使用しなかったのです。

伝統的な「おふだ」の力を、使いさえすれば、
もっと簡単に功法の拡大が急速に進んだやも知れません。

しかしながら、禅師は、この「おふだ」の偉大な効用を知りながら、
怖(お)めず臆せず使わなかったのです。

普善禅師に衣鉢が渡されたときには、
「おふだ」の所在や使い方など、たくさんの知識を受けとりました。

これらのことは、一切破棄して、全く何もない所から、功法を誕生させるような術(すべ)を、

禅師は張志祥に渡そうとしたので、彼がそれらを破棄したのです。

元極功法


張志祥に渡すことが定められていた

天が定めていた事ですから、彼はどうしても張家の人間に渡さなければなりませんでした。

張家に渡すために、普善禅師は張家の人材をずっと見ていたのですが、
なかなか適任者を見つけることが出来ませんでした。

彼は死ぬにも死ねず、随分待たされたのです。
待って、待って、漸く張志祥の祖父に渡すことが許されました。

にもかかわらず、張の父親は、風来坊のような、もちろん、悪い人では無かったのですが、
自らの功法の枠を拡げるような役割をしてくれましたけれど、随分回り道をしたのです。(注: 「張家掌門人」 参照)

このように、元極功法とは、一家の秘宝として守られるような功法ではなく、

「一子相伝」一番優れた修練者に渡されていく功法だったのですが、
張志祥に渡されるように定められていたので、回り道をしたのです。

そのために、普善禅師は、功法を温存して持ち続けていたのです。
待つ必要があったため、普善禅師に、360年もの命を神が与えたのです。

しかし、桁はずれた長命と言っても、枯れ木に精が漲(みなぎ)っていたというようなことで、
長生とはいえ、彼の肉体は、やはり老人の肉体だったのです。

元極功法


何事も悩まなければ、新しいモノは生まれません。

ゼロから新たに始まることであっても、何もかもゼロではなく、継承されて受け継がれてきたものなのです。

普善禅師が、悩み続けた結果、天から与えられました。禅師が発見した、悟ったといえば、そうかもしれません。

悩んだ結果のことかも知れませんが、導きによって、受けとったモノでなのです。

普善禅師が受け継いだのは、本人曰く、「まだ充分ではない、がさつな生き方をしていた若い頃」です。

若い頃と言っても、中年頃、40才を過ぎた頃のことです。
360歳まで生きた彼にとっては、40歳という年齢は、若い頃だったのでしょう。

その後、張志祥の祖父に衣鉢が引き渡されるまでに、約240~250年もの年月がかかったことになります。

それはどうしてかと言えば、張志祥に渡すことが定められていたからです。

元極功法


既にご承知のように、元極功法は太一道を受け継いだ普善禅師が悟り、発展させたものです。
普善禅師が今から何年位前に、元極図及び十字真言を悟ったのかといえば、
ほぼ同じ時期に受けとることとなりました。

それは、禅師が太一道を受け継いでから、間もない頃でした。
太一道を受け継いでから、一~二年、いや二~三年の頃になります。

曖昧な表現であるのは、一瞬で受け取ったわけではないからです。
彼は、長い時間をかけて受け取りました。

その頃に、禅師は悩み続けていたのです。
受け継いだそのままではなく、もっと新しくて、もっと期待が持てるような、
そんな功法に、自分の代で発展させていかなければいけないと彼は思ったのです。

受け継いだそのままを、次に受け渡してはならない。

それは、禅師に太一道を伝えた、先人たちの教えです。

この教えは、元極功法を初めて公開した張志祥にも、
日之本元極にも厳しく伝えられています。

普善禅師は、教えを守るのみでなく、
自らも受け継いだ太一道をどうしても新しく名のあるものにする、他の人に拡げるということも含めて、
もっと実のあるものに上積みしなければならないと、考えていました。

受け継いでから暫く、悩んで、悩んで、悩み続けた時に、
元極図がまず降ろされて、この元極図を自分で描いて書いてみたときに、
同時に十字真言が、降ろされてきたのです。

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

張家二代目である張先生のお父様に、なぜ奥様に衣鉢を渡してしまわれたのか、お話を伺いました。
私が、どうしてそうしたのかというと、
道をはずれたといってもおかしくはないのですが、領域を広げたかったのです。

ひとりの孤独の身で、世界観が拡がるような修練をしたかったという思いからです。

しかし、「功は日常にあり」といわれるように、社会生活の中で耐えて、
日々、耐えて生きることが出来なかった訳ですから、
どんな理由があったにせよ脱落をしたと言われても仕方がないことです。
(張志祥先生は、常々「出家をしたり、山に籠もるようなことはしてはいけない。」と、仰っていました。)

自分の領域を広げたい思いがあったにせよ、大きな働きはしていません。
また、別な機会、張家にその力を授けた普善禅師が、
「わしは、自分の弟子(張志祥先生の祖父)の『死に水』を取ってやったのだが、
わし自身の『死に水』は、その孫である志祥が取ってくれたのじゃ。」

とおっしゃっていたのも印象深いことでした。(完)

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

この話を読んで、張先生に以下のように、伺いました。

重慶に行くことを、遺言で勧めたのは、胡文甫(こぶんほ)師ではありませんか?

また、重慶に10ヶ月行って学んできたとは、誰に学んだのですか?
(お父さんと類推しつつ、わざと聞いてみました。)

その通り、大伯父の胡文甫(張志祥先生の母方の修練者)に言われました。

重慶の師とは、私の父親です。私の父親が、隠れて生活をしておりました。

しかし、このことは今までなんら公表はしておりません。
ここで、はじめてお話しできることです。

母親以外の者は知らないことです。
父は、正当な張家の伝承者として位置しておりながらも、その「沽券(こけん)」を捨てて、
自らの方途を自己で選ぶ道を選択しました。

歴史から受け継いだことではなくて、自らが体得したことをきわめて緻密に考えて、
それを開拓していく精神を持った人です。

伝承することを辞めたとき、父親は遙かかなた、重慶に居を構えて、隠遁生活を送ったわけです。

大伯父に言われるまで、父親に学ぶことはないものと思っていましたが、
極めて類を見ない貴重な体得をしておられたので、それまでの多くの師達に加えて学ぶことを許されたのです。

つじつまのあわないのは、承知なのですが、
父は張家の長子として生まれて、その道を捨てて、女房にその力を全て渡して隠遁生活をしました。

それは、元極功法が、四代目となるべき私によって花開く功法であるということが、
神によって事前に知らされていたからです。

父が、別の方法で、さらに功法に厚みをますために、より研鑽して、
師として他の事柄を息子に知らせたかったため、ということをも、付け加えておきます。
(つづく)

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

張先生のお話や著作の中には、お母さんのことは度々出てきても、
お父さんのことは一切出てくることがなかったので、なぜだろうと常々思っていました。

実は、誠に奇妙に思われるかもしれませんが、張家では三世代にわたり四代の掌門人が存在するのです。
志祥先生の父方の祖父が、普善禅師より衣鉢を賜り、
その子=志祥先生の父に渡し、その父が妻である志祥先生の母に伝えたのです。

そして母より志祥先生に元極道は渡され、張家四代に伝えられたというわけです。
これは日本の十四代天皇(と言われている。実際は十六代)仲哀天皇、
その仲哀天皇がお亡くなりになった後、
その座を受け継いだ神功皇后(現在では天皇に数えられていませんが、実際はその座に着かれたそうです。)、
そして神功皇后の子(仲哀天皇の子ではありません。)である
十五代天皇(現在ではそう数えられている。実際は十八代になります。)応神天皇のお三方が、
二世代でありながら三代の天皇の座に着いたことと同じようなものです。

私が不思議に思ったきっかけは、張先生からのお話を書物にしていた二冊
(元極学混沌初開法:李大川編訳、元極功入門:広岡純著)を
読んだからです。
二冊から、その大筋を拾ってみましょう。
ある禅師が亡くなる前に張志祥に「時が来たら必ず四川のある隠遁の高師を尋ねなさい。」と言い残した。

そこで張志祥は四川省の深山へ陰居している老師を訪ねていくことにしました。

四川は、張の居る鄂(がく)州からは千里の道のりです。

張志祥は母親が最後のアクセサリーを売って得た200元のお金を貰って、
長江を遡る四川省への帆船に乗りました。

船が重慶の埠頭に着くと、彼は船を離れて目標の大山へ向かいました。

隠者の師父の住所が判らないので、彼は四方八方探して歩きました。

ある日やっと一つの洞窟も門が開いて、おごそかな態度の隠遁の師が出て、彼を呼びました。

張志祥は、洞窟で老師に10ヶ月教わって、故郷の故郷の張師村に戻りました。

洞での一日の修練は、世上の三千日に匹敵すると言われます。
(つづく)

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです]

張志祥先生は、張家の四代目の掌門人であると仰ってみえました。「張氏の祖先が王氏に師承して、『元極図』と『元極秘録』の秘伝を継承し、
十字真言は、代々継承されてきたものではありません。
元極功法公開時に、神から直接張志祥先生に伝えられたものです
ここを参照
三代相伝えた。」

三代目が張先生のお母さんで、張先生が四代目を受け継がれたわけです。王氏というのが、普善禅師と呼ばれる元極道の開祖です。
私が、張先生は元極道五代目の掌門人であると言ってきたのはそういうことです。
ここで、皆さんは不思議にお思いになりませんか?
中国では、結婚後も苗字は変えずに、そのまま使われます。子が出来た時、子の苗字は父方のものが使われます。
ですから、張家で四代伝えられてきたのであれば、三代目のお母さんの苗字は張であり、
元極道は張志祥先生の母方で引き継がれてきたことになります。

しかしながら、志祥先生のお母さんの苗字は、「夏」なのです。
つまり、父方で受け継がれてきたにも関わらず、三代目は母なのです。常識的に言って(元極道は常識を遙かに超える存在ではありますが・・・)
二代目が、自分の子に衣鉢を渡さず、その嫁に渡すことがあり得ましょうか?
(つづく)

元極功法

張志祥先生のお答えです。

十字真言は、宇宙から届いた 暗号です。
それを、まことしやかに説明するために、十ヶ月の胎音だと説明しました。
それは、ちょうど十文字だったからです。

発展的にふくらんで
「でぃん」で、終了するということは、ひとつの法則がありました。
あなたがたの十二字真言が「う」で終了するように、始まりから発展して、終わりがある構成だということは同じです。

あなたが、十二字真言の一文字一文字を説明できないのと同じように、
十字真言の一文字一文字も説明ができません。
それで、便宜的に胎児の音だと説明したのです。

十字真言は、私が世間に公開するにあたって、知らされた真言であって、
元極功法は、もとより、無言で修練をしていました。
多くの人々に公開するにあたって、
念訣に集中することによって修練をしていくという方法が求められたので、
神によって宇宙の暗号が知らされたのです。

この暗号を知らされて、使うことが解かれて、許された訳です。

元極功法の「無字真経」はもともと音(おん)も声(せい)も形もないものでした。
通常の瞑想と同じように、ただひたすら黙って座っているだけのことでした。

その中で、ある高いレベルに到達する高徳の者達のみが、
無字真経を悟るのです。
これが、所謂「無心無為」の境界です。

しかし、一般に公開するにあたって、そこまでの導きの手法として十字真言が知らされたのです。

ですから、「十ヶ月の胎音」という方便の片方で、
「意味を考えず、ひたすら念訣しなさい」と、諭しているのです。

しかし、このようにいくら説明したとしても、判らぬ者には理解できないのです。

元極功法

元極功法を始めた頃から、教科書の中に合点のいかぬことが一つありました。
「十字真言が十ヶ月の胎音である。」と言う説明に関してです。

総訣とは、中華元極功法、元極学の「十字真言」
日之本元極功法の「十二字真言」に当たります。

総訣は全ての功訣の親に当たり、この総訣からその他の訣は皆派生するのです。
よって、総訣は天地の元音、宇宙の成り立ちの情報を含むと言いながら、
人のみの十ヶ月胎音より成り立つのはおかしいと思ったわけです。

人は十ヶ月(正確には270日)ですが、犬なら63日、馬なら335日です。
全てを包含する訣が、人の胎音のみから為るのは、甚だ疑問です。

そこで張志祥先生にお聞きしてみました。
以下がそのお答えです。

(つづく)