太一道と比干廟 1
元極功法の元は、太一道ですが、
成立は800数十年前のことであり、
詳しくは明らかになっていません。
平河出版社の道教事典には次の様にあります。
太一教
12世紀の中葉、金・宗両朝の戦乱の舞台となって荒廃した
華北地方に成立した新道教教団の1つ。
開祖は簫抱珍。お札を重視し、教主は代々開祖の姓に改める規定があるので、
天師道と関係があるとの説もあるが、戒律があり、中道を尚ぶので、性格はかなり違う。
開教直後から人気が集まり、汲県から山東省に広まる。
ーーーー中略ーーーー
第八祖以後の様子は不明。
ところが、 1990年代に安徽省の比干廟にて
ーーーー中略ーーーー
第八祖以後の様子は不明。
ところが、 1990年代に安徽省の比干廟にて
太一道の碑が見つかったというので、
一昨年行ってみました。
するとその石碑には、掌門人の名前が初代から33代まで
書いてあるではありませんか。
以下に写真を載せますが、
石碑の裏にようやくひと1人が入り込めるだけの隙間しかなく、
うまく写真が撮れませんでした。
しかし、 1枚目の写真の中央に、初代掌門人
「簫抱珍」の名前が見て取れるでしょう。
元極功法の名前について
またまた、「ターキッシュ ギュルさん」から、ご質問を頂きました。
「素朴な質問です。
張 志祥 先生の公開された元極功は “中華元極”というのが 正式な御名前なのでしょうか?」
張先生が、1987年に元極初公開した時は、
「中国元極功法」として発表されました。
しかし、中国一般では、中華思想という考え方があって、
「中国が世界の中心である」と考える人々が多く居たのです。
その中国を囲む周りは、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、
北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)として蔑む歴史がありました。
今ではそんなことはないでしょうが、「中国は優れている」という意味で、
中華と自民族を持ち上げることは続いてあります。
よって当時から、「中華元極」という言い方も使われていました。
確か1992年だったかと思いますが、
中国共産党政府の取る宗教的な臭いのするものへの締め付けを逃れる考えからと、
広範な作用が有る事を知って貰う為という意味で、
「元極学」というように名称を変更しました。
私の考えですが、張先生はあくまで「元極道」を使いたかったのではなかったか?
と、推測しています。
張先生は非常に柔軟な考え方の方でいらっしゃいまいたから、
社会の流れ、時代の流れに順応し、人々に多く受け入れて貰えるよう、
ご自分の囚われにいつまでも拘泥せず、
名前を変えていったのだと思います。
私は、その「中国共産党政府の取る宗教的な臭いのするものへの締め付けを逃れる」
と、いうところに引っかかりがあるので、
あまり「元極学」という名前を使いたく有りません。
中国の周りが、勿論劣っているとは思っていませんが、
この様な偉大な功法を創り上げた中国先人達の偉業を讃える為に、
敢えて「中華元極」という言い方をしたいと思っています。
そしてもうひとつ、こうした政治的な理由から中国での功法普及が困難な為、
中国から日本へと、この功法が引き渡され、
太一道ーーー> 元極道 ーーー> 中国元極功法
ーーー> 元極学 ーーー> 日之本元極
となった今、進展させた「日之本元極」功法と、
それまでの土台の構築をして下さった「中華元極功法」と、
分けて言及する時にも使わせていただいています。
元極功法は、通常の気功法を遙かに超越しているが故、
世間一般には殆ど認識されていません。
よって、いろいろご質問等お有りになるでしょうから、
今まで私がブログ内で書いてきた、
功法に関わることを纏めたH/Pがありますので、
まず、そこを御覧下さい。
中国河南省衛輝市比干廟にある、太一道代々掌門人の碑