今の天皇家では、皇太子に男の子がいらっしゃらず、
女の子を天皇にすべきか、一部で議論があるようです。
過去にもこのブログで書きましたが、応神天皇までは、神が人に生まれ、
天皇に着いていましたが、仁徳天皇からは、人が人として生まれたと神が仰っています。
応神天皇をお生みになった神功皇后は、仲哀天皇崩御後、実質皇位に着かれ、
尚且つ神上がっていらっしゃいますが、天皇に数えられていません。
推古天皇、持統天皇などは女帝でしたが、神功皇后は何故歴代天皇に数えられていないのか、
かねがね不思議に思っていました。
調べてみると、過去に10代8人の女帝がいました。
何故そうなったのか、神功皇后に伺ってみました。
私が、男性ではなかったからです。
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過去の持統天皇等は、皇后ではなく、女帝でした。
直系の血縁を持つ方でしたが、私は仲哀の嫁であったのです。
男性の妻、嫁は、数多く、子を産む存在として血族を絶やさない為の存在として、軽く見られていたのです。
たとえ、同じ仕事を命じられていたとしても、仲哀の妻は、天皇にはなりません。
15代・応神天皇までは神で、16代仁徳天皇以降、人であったとのことですが、
16代以降の天皇で、肉体が滅んでから神になられた天皇はいますか?
顕在意識が神になった天皇は、一人もいません。
しかし、魂や本性が役割を果たして神になった意識は少なくとも三例はあります。
これら神からの御言葉から察すると、神社の神主と同じように、
祀り事(本当は、政の仕事)を継承するだけになってしまった天皇家。
今更、皇族男子のみを跡継ぎとせずとも、女性に天皇を継がせても何の問題も無いと思います。
神功皇后が生んだ応神天皇は、仲哀天皇の崩御14ヶ月後に、
神の指令により大臣の武内宿禰との間に生まれた子であったのですから、
とっくの昔に、皇族男子の系統は途切れてしまっているのですから・・・・・。
ウィキペディア(2015.04.02)には以下のように有ります。ご参考になさって下さい。
女性天皇(じょせいてんのう)は、女性の天皇のこと。古くから女帝(漢音じょてい、呉音にょたい)と呼ばれていたが、皇位継承問題の議論が盛んとなった2004年以降、日本の公文書や報道では「女性天皇」の表現が用いられることが多くなった。
概説
日本では過去に8人10代の女性天皇が存在した。神功皇后や飯豊皇女を含め、彼女ら全員が男系女子(男系女性天皇)である。既婚の場合は皇后あるいは皇太子妃であり、その夫が亡くなったのちに践祚した。そのうちの6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中している。推古天皇から持統天皇までは皇后から皇位に就いたが元明天皇から後桜町天皇までは皇后を経ることなく皇位に就いた。
推古天皇(第33代、在位592年 – 628年) – 第29代欽明天皇の皇女、第30代敏達天皇の皇后
皇極天皇(第35代、在位642年 – 645年) – 敏達天皇の男系の曾孫、第34代舒明天皇の皇后
斉明天皇(第37代、在位655年 – 661年) – 皇極天皇の重祚(同一人物)
持統天皇(第41代、在位686年 – 697年) – 第38代天智天皇の皇女、第40代天武天皇の皇后
元明天皇(第43代、在位707年 – 715年) – 天智天皇の皇女、皇太子草壁皇子(天武天皇皇子)の妃
元正天皇(第44代、在位715年 – 724年) – 草壁皇子の娘、生涯独身
孝謙天皇(第46代、在位749年 – 758年) – 第45代聖武天皇の皇女、女性天皇の中で唯一皇太子からの践祚、生涯独身
称徳天皇(第48代、在位764年 – 770年) – 孝謙天皇の重祚(同一人物)
明正天皇(第109代、在位1629年 – 1643年) – 第108代後水尾天皇の皇女、生涯独身
後桜町天皇(第117代、在位1762年~1770年) – 第115代桜町天皇の皇女、生涯独身
※神功皇后も天皇の歴代に数えることが近代以前は行われた。
※飯豊皇女は、古事記では履中天皇の娘、日本書紀では市辺押磐皇子の娘であるため公式には天皇とされていないが、扶桑略記に「第24代飯豊天皇」とあるため、天皇として扱うべきとの意見もある。
上記のように女性天皇とは、単に女性の天皇を指す、個々の天皇の性別について区別する用語であるが、語句の類似性から女系天皇と混同されることが多い。しかし、女系天皇とはその天皇自身の性別にかかわらず、母方から皇室の血統を受け継ぐという血筋について区別する用語である(したがって女系の男性天皇・女系の女性天皇の両方があり得る)ため、両者は本質的に異なる概念である。
奈良時代末期から江戸時代初期までの900年近くにわたって女性天皇は誕生しなかったが、平安時代末期の鳥羽天皇の皇女であった暲子内親王(不婚内親王)が近衛天皇崩御時と安徳天皇西走時の皇位空白の際の2度にわたって皇位継承候補として名前が挙がっている。また、即位式の際の礼服御覧の儀の際に女性天皇の礼服が用意されていたこと、鎌倉時代の文学作品である『とりかへばや物語』には不婚内親王の女性東宮(皇太子)、『わが身にたどる姫君』には天皇の后妃だった内親王の女性天皇が登場していることから、中世前期において実現こそしなかったものの、女性天皇の可能性は意識されていたとする考えもある。
女性天皇に関する動き[編集]
現行の皇室典範第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と定められており、女系天皇は概念すら存在しなかった。「女系」(母が元皇族)の皇孫と、「女性」(本人が天皇の娘)との二重の否定が、結果的に両者(女系天皇と女性天皇)を混同させる一因になっているともいえよう。
しかし、皇族男子は秋篠宮文仁親王以来、40年間誕生せず、皇太子徳仁親王の第一子も女子である敬宮愛子内親王であったことから、女性天皇や女系天皇を認めるように皇室典範を改正しようとする動きが見られていた(皇位継承問題を参照)。平成18年(2006年)9月6日に41年ぶりの男性皇族である悠仁親王が誕生したが、若い男性皇族不足が解決されたわけでもないため、皇位継承問題は終わっていない(問題を先送りしただけ)とする意見がある。
さらには、女性天皇が積極的に容認されない事情に「神道儀礼」の問題がある。皇室が行う神道儀礼には女性が行うことが出来ない儀礼が多種存在する。歴代女性天皇もその行事のみは中止していた。
現今の女性天皇の議論において「神道儀礼」について加味されないのは、皇室の祭祀の伝統を無視するものであるという批判もなされている。
女性天皇の役割
一般的には記紀の記述を尊重し、過去に存在した女性天皇は全員が男系の女性天皇であり、また女性天皇が皇族男子以外と結婚して誕生した子が践祚したことは一度としてないとされている。
歴史学界では、女性天皇は男系男子天皇と男系男子天皇の間をつなぐ「女帝中継ぎ論」が通説であるが、孝謙天皇のように女性皇太子を経て正式に即位した女性天皇も存在する。ただし、その孝謙天皇についても、彼女を皇太子とした父の聖武天皇が遺詔において道祖王を皇太子として指名(後、廃太子)していることから、彼女もまた適切な候補者が見つかるまでの中継ぎであったとする説もある。