ブログ伊勢神宮, 元極功, 四至神, 日之本元極, 橋渡し, 気功教室, 気功法, 神々, 諏訪大社, 高山

改めてみやのめぐりの神をお呼びしてみました。
みやのめぐりのかみ、いらっしゃいますか。

応じております。
ここにお呼びいただいたからには、我々の声をお伝えいたします。
お呼びいただき、我々も応じたには、理由があります。

我々はこの地(伊勢神宮)において、これまで神々の力を集約するべく、
国がためや、国の護りに対する働きをしてきましたが、 今後この地はもう一度誕生します。

そのための入れ替え、変化を起こしています。

この地はもう一度誕生します。
わたくしたちは、高山の地に移り住み、 中山だけではなく、
本拠地となった新宮へ我々は移っています。
中山の力がなくなったわけでもありません。

我々は、多くの力(世界各地から)を高山の地に移住させているわけですから、
もっと強大にしているわけです。
我々は回復することを伝えます。

この伊勢の地が何れ崩されてなくなります。

その前にあなた方に何度も来ていただき、この地が変わる前の状態を見ていただいて、
この地から発信されて誕生していく様をここに再現していきます。

そのことで、我々は何度もお呼びし、来ていただいたわけです。

新たな橋渡しです 。
新たな橋渡しをしていきます。

我々のこれからの動きがここに再現されます。
それを感じ取ってください。

我々は今後この地が淘汰された後の世界を、 再現します。
その波動を感じて頂きながら、各所を回っていただきたかったのです。

風宮、土宮も共にすべてお回りくださいました。
それらはすべて変わりゆくからです。
全て変わり行く前に見て頂きたかったのです。

ここは我々に囲われていた土地、護られていた土地ですが、
完全に囲われていた土地が失われるということが意味が大きいのです。
それがどのような意味かはいずれ分かることとなります。

破壊の地に変わることを意味しています。

内宮と外宮にそれぞれに「みやのめぐりの神」が祀られています。
内宮の神と 外宮の神では役割が違うのでしょうか。
内宮と外宮のみやのめぐりのかみの棲み分けをどうされているか、を教えてください。

内宮では人、人を観る働きをしています。

外宮では環境を司り、観る働きをしています。

ブログ元極, 元極功, 日之本元極, 気功, 気功教室

娘の「ほにょ」が、怠けてて 
ちっともブログを更新しないので、
母親の「めめのめ」が、ついに業を煮やし、
自らブログを書き始めました。
一日数時間という錬功時間を何年も続けている
「めめのめ」のことですから、
いろいろな経験を、このブログを通じ、
吐露してくれることと思います。

https://ameblo.jp/meme591/

ブログ1日3個

1.動功 清昇濁降(清昇濁降む、ひと、ふた、み のいずれにおいても)をするとき、
メインで動功の録音教材をかけ、
サブとして小さい音で清昇濁降聞き流しの録音教材をかけます。
これによって、動功清昇濁降の録音教材のみで修錬をするより、
格段に効果が上がります。
2.下半身に邪気がたまって、排出がうまくいっていないと、
自覚している人は、
一日の内、可能な限り長い時間「清昇濁降聞き流し」の
録音教材を聞きます。
他にやりたいことがあるときにも、
邪魔にならない程度の大きさに音を絞り、
かけ続けることをお薦めします。
もちろん、睡眠中も睡眠に邪魔にならない程度の大きさで
朝までかけ続けて下さい。
3.この録音教材を聞いているときは、
なるべく邪気消しの措置をとるようにして下さい。
窓を開ける。
日之本元極の邪気消し線香を焚く。
場作りセットを設置する。
「海のまなみ」を四隅に盛る。
などをして、自分の輩出した邪気に再び侵されないようにします。

また、より功力を上げるには、
日之本元極の本部、支部で行われる錬功会にて

動功清昇濁降の修錬をする。
生言霊 清昇濁降
を受講する。
などを併用することが重要です。

ブログ人の喜び, 元極功, 命日, 天地, 日之本元極, 気功, 気功教室, 神の喜び, 神界, 顕在意識

昨年、8月5日に50年以上つき合ってきた
無二の親友Kが、なくなりました。
彼の顕在意識はもともと五次元に居た神の存在でしたが、
肉体を持って元極功法を経験する為、
三次元であるこの顕界に生まれてきました。
3年ほど元極を修錬してその仕事を果たし、
六次元に神上がりました。
命日を迎えるに当たり、
神界の感想を聞いてみました。

あなたが死んでから一年が過ぎます
神の世界は、いかがでしょうか?

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あなたと過ごした頃のことを懐かしく思い出します。
本当にあの頃は楽しかったですね。
努力すれば変わる。
何かをすれば、結果がでる。
これは、人として生きることの限界なのですが、

それはそれは楽しかったです。
未来が見えないから、努力する。
限界が判らないから 変化を求めて頑張る。

それらのことが人として生きる楽しみでもあるのです。

神の世界というのは、楽々としていて何も苦しみはありません。
しかし、あのような未来は判らないから楽しい。
結果を喜ぶ。ということはありません。
人として生きるというのは、

人の喜びというのは歓喜に満ちていますが、
神の喜びは もっと上の段階の喜びです。
ですから、あの頃の喜び、人として生きた喜びは、
もう味わうことが出来ません。
ですから懐かしいのです。

あのころの感情というのは、もう味わうことが出来ません。
良い、悪いということでは無くて、なつかしいのです。