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キュリー夫人 3
博物館内に入ったら、キュリー夫人からのお話がありました。
我々は、人から神になられた意識に限り、お話しすることが出来ます。
単に死んだだけでは、話すことが出来ません。
さすがにキュリー夫人は人類に多大な影響を与えた方だけに、神になっておられたわけです。
無精な私が行ってみようと思ったわけが判りました。
そのキュリー夫人からのメッセージを書いてみましょう。
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粗忽者の私は、数々の失敗を繰り返して、その失敗が成功となって、実験の成果に現れました。
私が、できたことは、粗忽者のゆえに、数々の実験を繰り返して、分析をして実験を繰り返す。
ただただ、その努力を繰り返すことでした。
元来の粗忽者ゆえ、かずかずの失敗をして、その失敗が次から次に成果となったわけです。
この私の失敗は、神の導きによって知らされた結果であったと、後から判りました。
私は、努力することを嫌いではなく、毎日が充実していました。
その発見した放射線が、人の世の発展のために役立つであろうと確信して、努力を惜しまなかったのです。
人を殺す兵器となった現在では、残念きわまりない気持ちを持ちつつ、
わたしのそれも定めであると、道を究めさせてくださった神々にお礼を申し上げているところです。
私の人生は、仕事を生きるしか道がありませんでした。
他のことに喜びを見いだすことが出来なかった私は、
不精者で女性としては気のつかぬ仕事しかできないの世間の狭い、そんな道を歩んできました。
全く粗忽者の人格としてはたどたどしい、生き方をしてきました。
しかし、繰り返して一つのことに集中する。熱心に考える。
このことが許された私はしあわせでした。
主人の残した功績を私が懸命に集めて、それを深めていく喜びを感じています。
人のために生きることは身を捨てるということですが、私にとっての身を捨てるということは、
他のことに気を配らずとも良い、科学に没頭する生き方でした。そんな生き方が出来て、
一心に一つのことを追求できた私の生き様は、普通の生き方とは違い、
うらやましがられる生き方とも違いますが、とても充実した人生でした。
分子科学で成功を収めましたが、これも導きによって、懸命に生きる道を与えられ、
懸命に努力する道を与えられ、毎日の研究に努力する道を与えられて、
毎日の研究を与えられて、発見と喜びを与えられました。
しあわせな生き方を与えられた私は、極めて良い人生を歩くことが出来ました。
当時としては、新しい発見にみちみちていて、鉱石からエネルギーのもととなるウランが発見出来たときには、非常な喜びでした。
これが、世界の発展に役立つと思っていました。
世界が発展されることに使われることを望んでいました。
世界の発展は、無情です。この無情なることをわれわれもまた、あなたがたに、導いているのです。
発展を信じて研究を重ねてきた者の科学の進歩とは、破壊と破滅の道を歩くということを私は知っています。
このこともまた、あなた方もすでにご存じのことだと思っています。
私は、科学の研究と努力と発展の喜びの連続でいたが、
それがまた、破壊と破滅の道を進むことになることをあなた方は知らねばなりません。
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実験器具類も非常に簡素な物ばかりでした。
キュリー夫人 2
キュリー夫人博物館で戴いた紹介文の続きを転載します。
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キュリー負債のウラン功績放射能の研究は、1898年に強い放射能を持った二つの新化学元素、
すなわちポロニウムとラジウムの発見に導いた。
1903年、マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは放射性物質の研究により物理学博士号を授与され、
同時に彼女の夫とヘンリー・ベクトルと共にノーベル物理学賞を授与された。
ピエール・キュリーが1906年4月19日に事故により亡くなった後、
マリヤ・キュリーはソルボンヌ大学物理学部の彼の講座の後継者として指名された。
1911年に彼女はノーベル化学賞を金属ラジウムの分離に関する業績によって受賞した。
マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、1912年にラジウム研究所をパリに設立するために努力した。
彼女は亡くなるまで研究所の物理化学部長を務めた。
第一次世界大戦中、彼女は移動X線班を組織し、前線にて自ら装置を操作して傷病者を検査し、
又放射線技師を訓練した。
1918年から1934年の間に彼女はポロニウム、アクチニウム、トリウムの放射能を研究し、
同時にパリのラジウム研究所にて運営と教育の務めを果たした。
フランスに深く関わった一方で、マリヤは常に祖国と緊密な連絡を取り続けた。
彼女の努力と指導によって、ポーランドの放射能研究所は放射能の研究を展開することが可能となった。
彼女の先導と雅量により、人間の命を救い健康を守るため、
ラジウムの治療効果を第一とするワルシャワのラジウム研究所が1932年に創立されることが決定した。
マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、長年にわたる放射性物質の被爆によって引き起こされた白血病のため、
1934年7月4日にフランス・サボア地方のサンセルモで亡くなった。
彼女は科学的業績によって広く認められ、数多くの賞や表彰、そして多くの大学からの名誉博士号、
学会からの名誉会員資格を授与された。
彼女の業績は、放射線科学の基礎を形成し、物質構造の統一見解を発展させ、
又世界に原子核の時代を開くことになった。
ポーランドの偉大な同胞に対する経緯表明として、キュリー夫人生誕100年を記念して、
彼女の思い出に捧げるユニークな博物館が設立されることになった。
博物館は、ワルシャワのフレタ通り16番地に位置し、ポーランド科学協会によって運営されている。
マリヤ・スクオドフスカ・キュリーは、ポーランド化学協会の設立者の一人であり、また名誉会員でもあった。
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キュリー夫人博物館内の展示物です。
キュリー婦人 1
この9月にポーランド、チェコに行ったことは既にこのブログで書きました。
神に呼ばれて行った所用を終えた後、回ったところがいくつかあります。
今からご紹介するキュリー夫人博物館も、そのひとつです。
ワルシャワ中央駅から、クラクフ郊外通りを抜け、旧市街からバルバカン(赤煉瓦で作られた円形の砦)をくぐって進むと、
小路の右側にある小さな建物に、金属製のプレートが目印なだけの簡素な博物館です。
実際その前を何度か往復して探しても判らなかったほどです。
A5の大きさの一枚ペラの紙切れだけでキュリー夫人を紹介した、そこで戴いた文を以下に転載します。
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マリヤ・スクオドフスカ・キュリー(1867-1934)は、1967年11月7日にポーランドのワルシャワに生まれた。
彼女ははじめ寄宿制の女子私塾で教育を受け、後にワルシャワの官立女学校を金メダルにて1883年に卒業した。
1884年から1891年まで、彼女は家庭教師として働きながら、大学入学資格試験の勉強を続けた。その頃彼女は、ワルシャワの農工業博物館の研究室にて化学分析の訓練をし、研究作業に習熟するようになった。
1891年、彼女は理科大学(ソルボンヌ)で学ぶためにパリにやって来た。
彼女は1893年に物理学の学資試験に合格し、翌年には数学の学資試験にも合格した。
1895年、彼女は科学に対する興味と愛を共有したピエール・キュリー(1859-1906)と結婚した。
打つの疲れたから、つづきは又明日・・・・・