生き残る 麹菌 (みそ)
先日、「麹菌と放射能」という題で、地元の麹菌が住む者にとって風土と身体に合った物であるということを書いたのですが、
実は私は高山の味噌醤油をあまり食べてはいません。
私の大好きな味噌は、愛知県知多郡武豊町の「傳右衛門」という三年味噌です。
醤油も最近は、「傳右衛門」の「溜まり」を使っています。
住んでいる高山から離れた地で出来た赤味噌(伝衛門味噌)は、腸の中で生き残る活動をしているかどうか心配になるところです。
麹菌にとって風土や気温などそういう条件も重要ですが、この味噌など三年もの長い期間、熟成した味噌は、とても貴重で有効です。
麹菌にとっては、熟成期間ということも重要な要素です。
春夏秋冬の気温の変化の中で、生き残ってきた菌には、それなりの生活の知恵が備わっています。
それは、どんな状況でも生き残っていく知恵です。
それが、人の身体の中でも発揮されるのです。
いじめればいじめるだけ人が強くなるように、長期に渡って熟成されることは、重要なことなのです。
私は今後も、手に入る間は、三年醸造「傳右衛門」の味噌溜まりを使っていくことになりそうです。
しかし、非常に高いのが少し・・・・・ネ。。。。。。
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。
つげぐし
私がてこてこ姉に、つげぐしを依頼したら、半損Straight Going もお願いしたらしい。
東京講座で、てこてこ姉にお会いしたら、こんなことを言っていた。
「かめちゃんのくしとカバーは、すぐイメージ出来たんだけど、
ハンソンSGさんの色と材質がイメージ出来ないのよね。こまったな!!」
適当に買っておけば良いようなものなんだけど、そこは真面目な?てこてこ姉。
迷っておられた。
「あたいが迷ってること言わないでね。」
釘を刺されたんだけど、ブログネタにしない訳がないよね。
これ、読んでる皆さんに、つげぐちしちゃいます。
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。
麹菌 と 放射能 3
私達は、数年前から、日本全国いろいろなところの味噌・醤油・たまりなど買い求めて比べてきています。
麹にしても何カ所から、いろいろの種類の物を比べてきています。
はっきり言って、場所によって麹菌の性質が、全く違うのです。
繁殖しやすさでいうと、ある所の麹菌は、きわめて良く繁殖します。
しかし腸内で、生き残って作用するかどうか?
といえば、我々には高山で作っている麹菌の方が、遙かに生き残りやすいといえます。
一般的に麹は55度から60度程度が繁殖し易いといわれます。
高山の麹菌は少し特殊で、腹内での温度で非常に繁殖し易く、室内ではほぼ雑菌と同じような温度を好むため、室温に置くと、すぐ雑菌と混ざってしまいます。
しかしひとたび人のお腹の中に入れば、とんでもない活躍ぶりを果たすのです。
ここ高山では麹の種類が大きく違うのです。同じ麹菌とはいえ、微妙な差ではありますが、麹の繁殖しやすさが違うのです。
繁殖しやすく、食べ物に用いるという点では、富山など、もっと他の地域の麹菌の方が使いやすい物は多く存在します。
ですが、そうではなくて、麹菌が腸内で生き残るかどうかについては、
貴方が、ここ高山で生きていくのであれば、高山で作っている麹菌の方が、遙かに生き残りやすいのです。
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。
麹菌 と 放射能 2
数え切れないほどの種類がある麹菌の中でも、性質が少しづつ違うということをあなた方は知っていると思います。
腸内で、元気に働く麹菌というのは、この地で生まれ、この地、この風土で育てられた麹菌でなければなりません。
この場所で創られた麹菌は、ココで生きるあなた方にとって、一番有効だということなのです。
腸の中で活性化されて生きて働く麹菌は、死んでかすを残し、
そのかすを食べて、また腸内細菌が活性化されて、より活発に働きます。
麹菌が腸内に存在することが、腸の中に、よりよい環境を作り出すことに繋がります。
腸内細菌が、増えて良い状態になると、腸の中の環境がよりよくなり、ひいては、それが高じて肺の活性化に繋がり、
臓器のなかの肺がより元気に働くことによって、五臓全体も活性化されて働くことになるのです。
肺と、免疫をつかさどる胸腺とは、密接な関係を持ちますから、胸腺も活性化されて、全身の免疫機能も活性化されるのです。
つまり麹は、放射能を排出して身体に対する影響を少なくするのではなく、
食べた人の、免疫力を代表とするような、その人の元気を充分に発動して、
放射能をも含めた身体への悪い影響に対する抵抗力を上げるように作用するのです。
写真をクリックすると大きくしてご覧になれます。
人間国宝・中村芝翫さん死去、83歳
「階み」の理論編の中で、世界中で、完璧な歩き方の出来る六人に上げてあった中村芝翫さんがお亡くなりになりました。
数少ない、伝統を伝えられる人がまた一人いなくなって、残念です。
長く生きることで役割を果たす方もいらっしゃれば、立派な業績を残された方であっても、あっけなく短い生涯を遂げる方もいらっしゃいます。
神々は、肉体を持って生きることを単なる上昇のための期間としか捉えていません。
早々と亡くなっても、神上がることが出来れば目出度いことなのです。
ご自分が、ご自分の役割をしっかりと果たせているか一緒に見直してみましょう。
【拡大写真はコチラ】
2000年8月 中村芝翫さんをはじめ、3世代がそろった会見。(前列左から)児太郎、宗生を抱いた中村芝翫さん、国生(後列左から)福助、橋之助
古風で端正な女形として知られた歌舞伎の人間国宝で、文化功労者の中村芝翫(なかむら・しかん、本名中村栄次郎=なかむら・えいじろう)さんが10日午前
0時50分、肝不全のため東京都内の病院で死去した。83歳だった。5歳で中村児太郎を名乗り初舞台を踏み、67年七代目芝翫を襲名。6年前に肝臓がんが
発覚し、病と闘ってきた。最期は長男の福助(50)、次女の夫・勘三郎(56)、孫の児太郎(17)らが見守る中、天国へと旅だった。同日夜には都内の自
宅で仮通夜が営まれ、約150人が弔問に訪れた。
歌舞伎界を支えた名女形が逝った。
名古屋・御園座で公演中の長男・福助は、公演を終え、亡くなる直前の10日午前0時近くになって東京都内の病院に到着。10分ほど会話を交わした。福助の
長男・児太郎は「父を待っていたかのようでした。神様って優しいなと思いました」と最期の父子の対面を振り返った。福助や勘三郎、長女、勘三郎の妻・好江
さん、児太郎ら孫、ひ孫らも看取(みと)った。次男・橋之助(46)は京都での公演のため看取ることはできなかったが、妻で女優の三田寛子(45)が携帯
電話を芝翫さんの耳元にかざし、最後の会話をした。
2005年、芝翫さんに肝臓がんが発覚。本人への告知はされないまま、抗がん治療が施された。うすうす気付いていた様子も見受けられる中、舞台に上がり続
けた。今年1月の「新春大歌舞伎」を途中降板したが、8月の「花形大歌舞伎」は最後まで務め上げた。9月1日に出演した「秀山祭九月大歌舞伎」(新橋演舞
場)が最後の舞台となった。
出演後、すぐに入院。何度か病状は悪化したものの、一時は退院できるのではと思えるほどの回復ぶりだった。
大の競馬好きでも知られる芝翫さんは、先日、入院中に100円で買った馬券が最後は80万円になったという。勘三郎が「『お前たちには3000円しかやら
ない』と言われて、みんなで『ケチだ』って笑っていたんですよ」と明かした。病気の回復を願って、子や孫たちが千羽鶴ならぬ、馬の折り紙を折っていたとい
う。
生前、芝翫さんは棺に「花なんか入れてくれるな。入れたらばけて出るぞ」と話していたそうで、その言葉通り、これまで折ってきた2千数百個にもなった馬の折り紙を入れる予定だ。
初舞台を踏んだ5歳で父・五代目中村福助を亡くし、孤独とも言える環境で生きてきた芝翫さんだが、最期は大勢の家族に見守られて安らかな眠りについた。