私事

私は、筆記具に関して相当偏向しています。
書く字は大きく、濃く、滑らかであることが必須です。

昔は万年筆も選びましたが、今では使わなくなりました。長文を書くのは、ほとんどパソコンで書くので、短い文章か、メモくらいしか筆記具は使わなくなりました。それでも、上記のこだわりがあって、いろいろ選んで使っています。
ボールペンは、三菱ユニ   パワータンク(単色しかありません。)1.0mmか、同メーカーの ジェットストリーム3色 1.0mm

もっと太いものがよいのですが、1.2mmや1.6mm等、売られているものの書き味が納得出来なくて、この2種になっています。
先日、トンボ鉛筆が新聞カラー一面で大々的に宣伝していた(ボールペンの宣伝では異例のことです)リポータースマート4色  というのを取り寄せてみましたが、今一でした。
ボールペンは、当分三菱の上記2種を使うことになるでしょう。

自然

来る5/21に日本の広域で金環蝕(正確には、「食」は間違い)が見られるそうだ。
173年ぶりとのことで、貴重な機会だ。

TVなどで話題にして、「日蝕グラス」でしか見ないで下さい・・・・と、業者の片棒を担いでいる。

元極修練者は、きちんとした師より天目を開けて貰っていれば、肉眼で太陽を見ることが出来る。
「階ふた」の段階には、功法として太陽を肉眼で直視する方法が存在する。

毎日の修練の度に、日蝕グラスを付けていたのでは、修練にならぬ。

一昨年にもここ斐太地方で部分日蝕が見られた。
その時には、5,6人のスタッフが錬功室の脇に並んで、
「ああ、欠けてきた、欠けてきた。」
等と、空を仰いで肉眼で太陽を見ていたものだ。
(天目の開いていない人は、真似をしないで下さい。失明します。)

日之本元極の功法では、現代科学で理解の出来ない現象が起きたり、能力が発揮されたりする。

場の善し悪し

ガソリンがなくて、開店休業のガソリンスタンド



こんな駐車の仕方は、普通では出来ません。

ずらりと何キロも並んでいるガソリンスタンドに並ぶ車。

場の善し悪し

昨年の震災直後、食料、燃料などをワゴン車に満載していった時の写真です。
今では政府は言うに及ばず、災害に遭わなかった人々は全く他人事のようですが、
被災した方々も、生かされたことを感謝したその時の気持ちを忘れている人が多くなっている様に思われます。

元極功法

元極功法の教えを伝えるために、元極秘籙(ひろく)なるものがある。

その中で、張家三代目が、張志祥先生に一番強く教え諭したとされるものが、次の二項です。

修行を積み、その創新と突破に努めること。

一宗を師承し、百家を溶合す。

真実

野口悠紀雄氏が、著書の中で、言っています。

他からの信頼や社会的評価を落とせば、大きな損失を被るという状況が必要である。
逆に言えば、「失うべき何物も持たない」人々は、信頼を裏切る可能性がある。
なぜなら、それによって利益を得る反面で、失うものは何もないからである。
相互信頼とは、「失うべき多くのものを持つ人々の集まり」でこそ形成されるのだ。・・・・・・・・##2

この部分の野口さんの意見には、異論があります。

先回、人にはすることの出来ることは何でも許されており、自由である。
しかし、その自由にはその者の持つ倫理によって、ブレーキがかかることを書いた。
その倫理とは、人の倫理ではなく、宇宙の倫理が働かなくてはならず、
その宇宙倫理のブレーキを踏む行為をさせないのが、人の欲なのだ。

野口さんは、倫理のブレーキが「失うべき何物も持たない」人々では踏めないといっているのです。

私は、そんなことはないと思っています。
失う物をいっぱい持っている者でも、倫理観の低いものもいれば、
何も持たない者でも宇宙倫理にかなっているものも居ます。

野口さんは、「現代の社会常識的な判断基準=損得」に冒されていると思います。
本来の基準は、「善悪」であるべきなのです。

全ての者が、何も持っていないという認識で生活すべきなのです。
それを、これは私の物、あれは貴方の物とするから、欲にまみれ、物や地位、名誉などを手放せなくなります。
そして、「自由を侵された。」と言って、本来歩かなければならない道から外れるのです。

天地の中での自由とは、そのことばの意味とは裏腹に、何でも出来るその環境下にありながら、
すべてのものを手放して本来通らねばならないたった一つの道(タオ)を選んで進んでいけるかどうかということなのです。