食べ物について

ババタヌキさんのブログに、絶食によって嗜好が大きく変わったことが書いてありました。
(以下のリンクをご覧下さい)

絶食と嗜好の変化について 1 5/8
絶食と嗜好の変化について 2 5/9
絶食と嗜好の変化について 3 5/10
絶食と嗜好の変化について 4 5/11
絶食と嗜好の変化について 5 5/14
絶食と嗜好の変化について 6 5/15

この時のババタヌキさんの絶食は、通常の絶食とは大きく違います。
それは、絶食と同時に「心身共鳴神法」が施術されていたことです。

「心身共鳴神法」は、その名前からも判るように身体にだけ作用するわけではありません。
意識に、そして心にも作用します。

食べ物などの、自分の異常に好きという感情や、過去の腹痛などの事故を引きずり、
以後食べられなくなっている食材の是正に役立ちます。

依存性のある物への思いを断ち切りたいときに、
食も断ち切ることで、思いが断ち切られていきます。

自分の食に対するこだわりの思いは、食を断ち切ることで、思いも断ち切ることが出来ます。

それは、もちろん、「心身共鳴神法」によって、意識や人格への作用が同時に起こることで可能になります。

「もとつきわみ意識図」中の人格による執着心、
「おいしい」等の過去の記憶が、その「おいしさ」を呼び起こして、
大脳が満足する記憶を思い出したい。

そのために、ババタヌキさんはビールを飲むことに依存していたのです。

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

張家二代目である張先生のお父様に、なぜ奥様に衣鉢を渡してしまわれたのか、お話を伺いました。
私が、どうしてそうしたのかというと、
道をはずれたといってもおかしくはないのですが、領域を広げたかったのです。

ひとりの孤独の身で、世界観が拡がるような修練をしたかったという思いからです。

しかし、「功は日常にあり」といわれるように、社会生活の中で耐えて、
日々、耐えて生きることが出来なかった訳ですから、
どんな理由があったにせよ脱落をしたと言われても仕方がないことです。
(張志祥先生は、常々「出家をしたり、山に籠もるようなことはしてはいけない。」と、仰っていました。)

自分の領域を広げたい思いがあったにせよ、大きな働きはしていません。
また、別な機会、張家にその力を授けた普善禅師が、
「わしは、自分の弟子(張志祥先生の祖父)の『死に水』を取ってやったのだが、
わし自身の『死に水』は、その孫である志祥が取ってくれたのじゃ。」

とおっしゃっていたのも印象深いことでした。(完)

神社周辺

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

この話を読んで、張先生に以下のように、伺いました。

重慶に行くことを、遺言で勧めたのは、胡文甫(こぶんほ)師ではありませんか?

また、重慶に10ヶ月行って学んできたとは、誰に学んだのですか?
(お父さんと類推しつつ、わざと聞いてみました。)

その通り、大伯父の胡文甫(張志祥先生の母方の修練者)に言われました。

重慶の師とは、私の父親です。私の父親が、隠れて生活をしておりました。

しかし、このことは今までなんら公表はしておりません。
ここで、はじめてお話しできることです。

母親以外の者は知らないことです。
父は、正当な張家の伝承者として位置しておりながらも、その「沽券(こけん)」を捨てて、
自らの方途を自己で選ぶ道を選択しました。

歴史から受け継いだことではなくて、自らが体得したことをきわめて緻密に考えて、
それを開拓していく精神を持った人です。

伝承することを辞めたとき、父親は遙かかなた、重慶に居を構えて、隠遁生活を送ったわけです。

大伯父に言われるまで、父親に学ぶことはないものと思っていましたが、
極めて類を見ない貴重な体得をしておられたので、それまでの多くの師達に加えて学ぶことを許されたのです。

つじつまのあわないのは、承知なのですが、
父は張家の長子として生まれて、その道を捨てて、女房にその力を全て渡して隠遁生活をしました。

それは、元極功法が、四代目となるべき私によって花開く功法であるということが、
神によって事前に知らされていたからです。

父が、別の方法で、さらに功法に厚みをますために、より研鑽して、
師として他の事柄を息子に知らせたかったため、ということをも、付け加えておきます。
(つづく)

神社・仏閣

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

張先生のお話や著作の中には、お母さんのことは度々出てきても、
お父さんのことは一切出てくることがなかったので、なぜだろうと常々思っていました。

実は、誠に奇妙に思われるかもしれませんが、張家では三世代にわたり四代の掌門人が存在するのです。
志祥先生の父方の祖父が、普善禅師より衣鉢を賜り、
その子=志祥先生の父に渡し、その父が妻である志祥先生の母に伝えたのです。

そして母より志祥先生に元極道は渡され、張家四代に伝えられたというわけです。
これは日本の十四代天皇(と言われている。実際は十六代)仲哀天皇、
その仲哀天皇がお亡くなりになった後、
その座を受け継いだ神功皇后(現在では天皇に数えられていませんが、実際はその座に着かれたそうです。)、
そして神功皇后の子(仲哀天皇の子ではありません。)である
十五代天皇(現在ではそう数えられている。実際は十八代になります。)応神天皇のお三方が、
二世代でありながら三代の天皇の座に着いたことと同じようなものです。

私が不思議に思ったきっかけは、張先生からのお話を書物にしていた二冊
(元極学混沌初開法:李大川編訳、元極功入門:広岡純著)を
読んだからです。
二冊から、その大筋を拾ってみましょう。
ある禅師が亡くなる前に張志祥に「時が来たら必ず四川のある隠遁の高師を尋ねなさい。」と言い残した。

そこで張志祥は四川省の深山へ陰居している老師を訪ねていくことにしました。

四川は、張の居る鄂(がく)州からは千里の道のりです。

張志祥は母親が最後のアクセサリーを売って得た200元のお金を貰って、
長江を遡る四川省への帆船に乗りました。

船が重慶の埠頭に着くと、彼は船を離れて目標の大山へ向かいました。

隠者の師父の住所が判らないので、彼は四方八方探して歩きました。

ある日やっと一つの洞窟も門が開いて、おごそかな態度の隠遁の師が出て、彼を呼びました。

張志祥は、洞窟で老師に10ヶ月教わって、故郷の故郷の張師村に戻りました。

洞での一日の修練は、世上の三千日に匹敵すると言われます。
(つづく)

形示し

元極功法

[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです]

張志祥先生は、張家の四代目の掌門人であると仰ってみえました。「張氏の祖先が王氏に師承して、『元極図』と『元極秘録』の秘伝を継承し、
十字真言は、代々継承されてきたものではありません。
元極功法公開時に、神から直接張志祥先生に伝えられたものです
ここを参照
三代相伝えた。」

三代目が張先生のお母さんで、張先生が四代目を受け継がれたわけです。王氏というのが、普善禅師と呼ばれる元極道の開祖です。
私が、張先生は元極道五代目の掌門人であると言ってきたのはそういうことです。
ここで、皆さんは不思議にお思いになりませんか?
中国では、結婚後も苗字は変えずに、そのまま使われます。子が出来た時、子の苗字は父方のものが使われます。
ですから、張家で四代伝えられてきたのであれば、三代目のお母さんの苗字は張であり、
元極道は張志祥先生の母方で引き継がれてきたことになります。

しかしながら、志祥先生のお母さんの苗字は、「夏」なのです。
つまり、父方で受け継がれてきたにも関わらず、三代目は母なのです。常識的に言って(元極道は常識を遙かに超える存在ではありますが・・・)
二代目が、自分の子に衣鉢を渡さず、その嫁に渡すことがあり得ましょうか?
(つづく)