日之本元極功法


「すわいしょう・そわか(注:ひと及びふたに関係なく)」をすると、
「屁」が出て困るという人が、何人か出てきました。
その話を聞いて、思い出した事があります。

40年くらい前に読んだ事だけど、SF作家の星新一さんが、小松左京さんに手紙を出した。
宛先に、

「大阪府ヶ崎市XXXX       小松 左京 様」

とあったので、
小松左京さんが抗議の返信をした。

「尻」が先ではなく、「尼」が正しいです。
「尸(しかばね)」の中は、「九」ではなく、「匕」です。

次に、星新一さんから謝りの手紙が来た。

申し訳ない、つい「九」と「匕」を書き間違えました。
今回は、間違えのないように、念を入れて書きました。
とあった。

宛先には、

「大阪府ヶ崎市XXXX       小松 左京 様」

と書いてあったそうな。
皆さんもお間違えのなきように・・・・。

正しくは、「ヶ崎」ですので。

さて、本題は、次回に・・・・・・。

形示し

植物


食べ物について


以前、
「伝右衛門」という味噌と溜まりを紹介した事があります。
私は、愛知の伝統的な味噌、一般には八丁味噌といわれる物と、そこから派生する溜まりが大好きです。

今では、全国的に有名になった、岡崎のXXXという八丁味噌は、
名前だけは全国区になりましたが、伝統的な味を守りきれず、堕落してしまいました。

ところが、あまり知られていないような田舎の片隅で小規模に作り続けている「伝右衛門」や、

今回ご紹介する「南蔵・青木弥右ェ門」などに、伝統が守られ旨い味噌と溜まりが作り続けられているのです。

この二つの蔵の製品を比べてみると、伝右衛門の方が頑(かたく)なに製法を守り続けていて、
一般受けしにくいかもしれませんが、昔からの味噌と溜まりの味が残されていると言えましょう。

一方、弥ェ門の方は、現代風な料理にも微妙に合わせられる美味さがあります。
まあ、これは個人的な好みの領域になるでしょうね。

ちょっと、お高いですよ。

植物

元極功法


加えて、「おふだ」のような、伝統的な事柄が差別化されたり、
迫害を受ける文化大革命の時に張志祥に渡すことを、禅師は知らされていましたから、
そこにも一工夫ありました。

現在の、日之本元極が広げようとしているときには、物が力を発揮するときですから、
この「おふだ」のように、物で人々の注目を集めるのも良しとするという事で、
再度使用が許されています。

普善禅師以降、使われはしませんでしたが、その技法や功力は脈々と伝えられ、
張志祥から日之本元極へと伝承されてきています。

張家が受け取る頃には、古い遺物は、打ち消される時代でしたから、
彼等も破棄しなければならなかったのですが、
もちろん張志祥も受けとっていました。

その作用は、明らかにされませんでしたが、
張志祥が書いた著作の表扉にある

「無生生無無不生、有化化有有亦化」

等の文字に囲われた無の空間の使い方は、
伝統的な太一道の「おふだ」の使用法の名残です。

そして、日之本元極の「三元カード」などは、太一道の伝統を残しながら、
新たに功力を増して作り上げた現代版の「おふだ」といえる物です。

形示し

元極功法


太一道は、「おふだ」を、重要視したとされています。

開祖の蕭抱珍(しょうほうちん)は、300階余の「おふだ」を残したと伝えられています。

しかし、中華元極功法の中には 「おふだ」は一切使われていませんので、
普善禅師の時には、それは使われていたのかという疑問が残るところでしょう。

前述しましたが、普善禅師は、それまでの功法を一新しようとしていましたので、
「おふだ」の類はあえて使用しなかったのです。

伝統的な「おふだ」の力を、使いさえすれば、
もっと簡単に功法の拡大が急速に進んだやも知れません。

しかしながら、禅師は、この「おふだ」の偉大な効用を知りながら、
怖(お)めず臆せず使わなかったのです。

普善禅師に衣鉢が渡されたときには、
「おふだ」の所在や使い方など、たくさんの知識を受けとりました。

これらのことは、一切破棄して、全く何もない所から、功法を誕生させるような術(すべ)を、

禅師は張志祥に渡そうとしたので、彼がそれらを破棄したのです。

形示し

元極功法


張志祥に渡すことが定められていた

天が定めていた事ですから、彼はどうしても張家の人間に渡さなければなりませんでした。

張家に渡すために、普善禅師は張家の人材をずっと見ていたのですが、
なかなか適任者を見つけることが出来ませんでした。

彼は死ぬにも死ねず、随分待たされたのです。
待って、待って、漸く張志祥の祖父に渡すことが許されました。

にもかかわらず、張の父親は、風来坊のような、もちろん、悪い人では無かったのですが、
自らの功法の枠を拡げるような役割をしてくれましたけれど、随分回り道をしたのです。(注: 「張家掌門人」 参照)

このように、元極功法とは、一家の秘宝として守られるような功法ではなく、

「一子相伝」一番優れた修練者に渡されていく功法だったのですが、
張志祥に渡されるように定められていたので、回り道をしたのです。

そのために、普善禅師は、功法を温存して持ち続けていたのです。
待つ必要があったため、普善禅師に、360年もの命を神が与えたのです。

しかし、桁はずれた長命と言っても、枯れ木に精が漲(みなぎ)っていたというようなことで、
長生とはいえ、彼の肉体は、やはり老人の肉体だったのです。