気配ということ 2
時代劇の闇討ちをする場面などで、
「やって来るぞ。殺気を消せ!」
等という台詞を聞いたことが有るでしょう。
考えを巡らせているうちに、
「そうか、何か気配というようなものが、違うのかもしれない。」
と、思うようになりました。
つまり、生命活動をして動いている自分が、周りの環境と同化していれば、
外から感じてみた時、差異を感じることが出来ず、
うっかり至近距離までニアミスしてしまうのではないか。
上手く修練が出来ている時、効能体になっている時には、
環境と同化出来ている=天地と一体化に近づいているのではないかと考えたのです。
これが、師の言われるところの「天人合一」への道なんだと、納得出来たわけです。
それでは、ドラマのように気配は自在に消すことが出来るのか、
時代劇の脚本は、やっぱり作り物ではないのか、疑り深い僕は自分で試してみたのです。
ある日早朝の修練中、
よりにもよって動功をして動いている私からほんの2,3メートルの所にある手すりに野鳥が止まったのです。
いたずら心を起こした僕は、
「一体何処まで近づくことが出来るか、試してみよう。」
と、修練中の状態をなるべく変えることなく、ゆっくりと近づいていきました。
すると、ほんの2、30センチの近くまで近づいても逃げないではありませんか。
更に手を近づけ、触ろうとした時漸くパタパタと飛び去っていきました。
シグマDP2Merrill(メリル)
気配ということ 1
今から十七・八年前、三階建ての自宅@東京の屋上で、
毎日朝5時から二時間から二時間半くらい、動功の修練をするのが日課でした。
東京の遅い日の出は、その時間帯であれば、夏でも冬でも必ず見ることが出来ます。
ですから、晴れていれば、必ず日の出を見逃すことは有りませんでした。
更にすてきなことは、真冬の快晴の日は、西の方向に富士山が見えることでした。
そんな早朝の修練中、動功をしている私のすぐ傍ら
――身体から4、50センチの所を武蔵野に生息する野鳥が飛び抜けていくことが、度々ありました。
修練をしている以外の時には、屋上であろうが、他の場所であろうが、
そんなことは一度も経験したことがありません。
修練中とその他の場合と、何が違うのだろう?しばらくの間、
考えていた期間がありました。