金木犀(もくせい)と銀木犀 3
「あおいとり」さんのブログに、「金木犀」の事が書かれています。
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私は今から18年ほど前に、その金木犀ではなく、銀木犀に深い思い出があります。
早朝の静けさは、突然の喧噪によってかき消された。
「どん、どん、ど~ん。」
「増田先生、増田先生、おはよう御座います。起きて下さ~い。」
何事かと思うドアのけたたましい音と、呼び声。
目を擦りながら、開けたドアの外に立っていた弟子の一人が
「先生の香りの元が判りました。直ぐ来て下さい。」
と、急(せ)かす。
急いで着替え、弟子の後に続いて行く。
ホテルのロビーを抜け、外に出る。
そこから下る階段の右横に、人の二倍位の高さがあろうと思われる木が、
白い小さな花をこぼれんばかりに咲かせて居るではないか。
昨夜は遅くて、暗いその階段を気にすることなく通り過ぎてしまったが、
朝になってみるその美しさは、見とれんばかりだった。
その木に近づいてみると、ほのかに優しい香りが漂っている。
正に、東京で二週間ほどの間、私から出ていた香りに違いない。
金木犀の「ここで私が咲いているわよ。」といった強烈な自己主張のある香りではなく、
近づいてくれる人だけを密かに楽しませるような、奥ゆかしい香りだ。
それが故、昨夜ここを通ったにも関わらず、誰も気がつかなかったのかもしれない。
「何故、この蓮花山のこの花の香りが、私から出ていたのだろうか?」
直線距離でも 2500Km程も離れている東京と鄂州(がくしゅう)市蓮花山。
その距離を超越して、どうして香りが届いていたのか?
それから随分後になって、その理由が判ってきました。
九月の下旬になって、蓮花山行きを決めていた私が、いよいよもうすぐと期待が高まり、
無意識下で、無形の世界で蓮花山と自分を連結していたのです。
こうした修練の世界を深く体験したことのない人々には、想いもよらないことでしょう。
その銀木犀のあったホテル九州楼は、2001年頃閉鎖され、
今では近づくことさえ出来ない状態になってしまいました。
その後、その銀木犀の香りは、私から一切出ることはなくなりました。
しかし、今でもその銀木犀は、毎年今頃、
私の心の中で満開の花を咲かせ、芳(かぐわ)しい香りを漂わせてくれています。
金木犀(もくせい)と銀木犀 2
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私は今から18年ほど前に、その金木犀ではなく、銀木犀に深い思い出があります。
その頃、中国蓮花山では、年に四回、大きな講座が開かれていました。
正月、旧正月、旧5/5の端午(たんご)の節句、旧9/9の重陽(ちょうよう)の節句です。
重陽(ちょうよう)の節句について、ウィキペディアでは、次のように説明しています。
重陽(ちょうよう)は、五節句の一つで、9月9日のこと。
旧暦では菊が咲く季節であることから菊の節句とも呼ばれる。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、
陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。
奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、
れを払う行事として節句が行なわれていたが、
九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。
後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。
邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、
菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。
また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。
現在では、他の節句と比べてあまり実施されていない。
その年、私はその重陽の節句の講座を受講することにしていて、
先ほどの疑問は棚上げにしたまま、20名ほどの修練者を連れて中国に渡りました。
当時、中国行きの便はそれほどなく、
成田から上海へ渡り、国内便で武漢まで移動していました。
そして蓮花山への到着時間は、決まって深夜。
その時も、夜中の1時過ぎに蓮花山内の外国人向けホテル
「九州楼(きゅうしゅうろう)」に着いて、直ぐ休んだのでした。