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2000年8月、前年の法輪功事件の余波を受けて
蓮花山講座が禁止されてから初めて、蓮花山を訪れました。
元極康復医院から蓮花山病院と名を変えた病院での治療と
中医学の基礎講座という内容です。
その時中国全土で3カ所しか認められていなかった
気功治療(貫頂・帯功)を受けること、
薬草風呂、おなじく薬草の足湯、
全身点竅按摩(ツボから修練者が三元を入れながらの全身マッサージ)、
同じく点竅足裏マッサージ、
中医学の基礎講座、そしてその時初めて受けることになった「意念鍼」というような内容です。
一〇名にも満たない少人数での体験旅行でしたが、
緊迫した中国の体制内で、
張先生とお話しできる時間を持てた貴重な訪中でした。
五日間ほぼ同じ内容の繰り返しという毎日でしたが、
病人にとっては日々の回復が目に見え、
修練者にとっても自己の修練時間が
日本国内のあわただしい生活で充分ではないのに比べて、
満足できる内容になっていたと思われます。
意念鍼とは、施術者が被術者の体内を内視し
悪いと思われるところに通ずる経絡上の経穴(ツボ)に
鍼を打つ真似をします。
そしてその結果、体調の悪かったところの改善が図られるというものです。
実際に鍼は使わず意念により気の鍼を指先に造って、
その無形の鍼にて作用させるわけです。
被術者は目をつむっているのですが、
敏感な人は「あぁ、ここに打たれる。」と、
打たれる前から場所が判ったり、
打たれた場所がチクリと痛んだりするのですから、
プラシーボ効果ではありません。
また、被術者の悪いところも事前に施術者に
伝えているわけではありません。
この功法は、図書館司書をしている女性が
張先生の指導を受け開発したもので、
その時点で蓮花山病院でも三名の方しかできない功法でした。

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最近、神々からのお言葉を見返している時に、
2008年普善禅師からのお言葉を見つけました。

2008/01/06
人の竅穴を見る力を与えるのは、スタッフに限定されるべきです。

または、スタッフに準ずる者、協力者に限定されるべきです。
スタッフやスタッフに準ずる講師以外が、
人の竅穴を見ようとしたときには、遮断して見れないようにしなさい。
人の竅穴をのぞき見るということは危険なことです。
たとえ、修練をしていても徳が無ければ竅穴ができません。
たとえ、多くの修練を積み重ねた歴史があろうとも
「徳」やそのものの役割が充分果たせないという状況下では、
竅穴は、充分に出来上がりません。

それらのことは、日常生活では分からないのに、

竅穴の大きさで分かってしまうことがあります。
それは、その人にとって極めてマイナスの情報であるので、
スタッフ以外は知ることを許されません。
自分より上の位置にいる先輩の竅穴を見ることも、
止められなければなりません。
新参者が、上位にいる者を見ることは出来ません。
上位にいようとも、その者が上位の竅穴を持っているとは
限らないからです。
入門して、自分の竅穴を見ることは、許されることです。
自分の竅穴を見て、次の段階に進んでいくことは、
能力として許されるべきことです。
今、「とくのしま」の力を使って、限定された者以外が
他人の竅穴を観ることができないようにしました。
もちろん、スタッフとて師や先輩の竅穴は観ることができません。
そして、練功をきちんとすれば、
ご自分の竅穴をしっかりと把握できるようにもしました。
これからは、その竅穴の大きさをしっかりと観て、
ご自分で修練段階を判断するようにしてください。
それがわからない者は、まだまだ修練が足らないということです。

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私は元極功法を始めて3ヶ月目に、
その普及基地である蓮花山に初めて行きました。
そして戻ってくるとすぐに、自分の竅穴が
どれぐらい出来上がっているのか、
その大きさが判るようになりました。
蓮花山は修錬者にとって(一般の人にとっても)特別な所ですし、
特別講座が開かれる年5、6回の時は、
特別に気の場の強い刻(とき)な訳で、
その時に特別な功法を授かるわけですから、なおさらです。
現在、蓮花山は特別な所ではなくなってしまいました。
その場所にあった七つの龍穴は全てなくなり、
高山新宮に移動させられました。
今修錬をしている皆さんにとって特別な所は、
ここ日本の高山新宮で、
特別な時とは日之本元極で開催される特別講座の刻(とき)です。
蓮花山から戻って2ケ月ほどすると、
講師になるようにとの依頼があったので、
軽い気持ちでそれを受け、
元極を始めて5ヶ月で講師になったのです。
今から思うと、冷や汗が出るようなことでした。
講師になってしばらくすると、
他人の竅穴のでき具合も判るようになっていました。
しかし、自分の教えた人たちの竅穴は観るものの、
師や先輩の竅穴を観ることは一切しませんでした。
それは、師については、恐れ多いことだと思いましたし、
先輩について言えば、
それをすることは失礼なことだと思ったからです。