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神仏との出会い

## 9次元におられる達磨さんに伺います。

少林寺拳法をだるまさんが、伝えたのですか?

また、達磨さんが弟子に教えたという易筋経や洗随経は、

その通り弟子達に伝えられたのですか?

それは、もちろん伝えたのですが、現代には伝わっていません。

伝えたことを出来るものが居なかったからです。陰も形も有りません。

私は、ひたすら座っていただけです。

ただただ、座っていました。

決して、武術を教えたわけではありません。

しかし、座ったままでも出来る、易筋経や洗随経を教えたのです。

それが、武術に変わりました。

つまりは、座ったままで、それが出来る者がいなかったので、

身体を動かして、それらを受け取るしか、彼等には道がなかったのです。

わたしは、武術を教えたわけではありません。

それは大きな間違いです。

それが伝説です。

私は仏教を学び、仏教で得た安らぎのための、座って修練をする原則を守っていました。

私は、ただただ、ひたすら座り続けて修練をしたのです。

その姿はひたすら美しい。あまりにも美しいということ。

皆が出来ないことを私だけが出来たということも、いとも容易く伝わっていますが、

座っていても気がめぐる、その極意は伝わらなかったので、武術になってしまったのです。

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神仏との出会い

少林寺拳法の舞台をみて
## 少林寺拳法のショーが始まると、下丹田、下黄庭にエネルギーが 充ち満ちてきました。

ショーの公演中は、其の昔の少林寺のエネルギーをあなた方にお届けします。

今から見るのはショーですから、あなた方には昔の健闘していた僧侶たちのエネルギーを届けます。

このエネルギーがなければ、この少林寺の拳法は成り立たないのです。

現在では、ただただ形だけの真似事です。

拳法どころでは無くなっています。決して形が大事ではありません。

右手を使った拳法です。

右手から放たれる気のエネルギーを、左手を通じて全身に巡るような動きになっています。

右手で受け取って、左手に流す、そして全身に巡らせるのです。

両足からも、百会からも、天地のエネルギーを受け取りつつ、

右手で受け取って、左手で放つことが起きています。

その時に、同じくして下丹田、下黄庭にエネルギーが聚積されるのです。

受け取ったエネルギーを、自分の気で倍増させて相手に放つ。

その気のエネルギーの威力で相手を倒す。自分を防御する。

その気のエネルギーの鋭さによって相手を倒すので、接触しなくても倒せるわけです。

無形の気のエネルギーのやり取りによる拳法であったわけですが、

それが出来なくなったので、武器や身体を激しく動かす武道に変化してしまいました。

右半身と左半身が別々に動く。

そして、対角線上に気が動きます。

演舞は撮影禁止でした

登り道を振り返る

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神仏との出会い

中でも、慧可(けいか)が左腕を切り落としたというのは、全くの出鱈目です。

少林寺では、両手を合わせることなく、右手のみを胸の前に出し、拝みます。

少林寺の拳法というのは、右手から気を受け入れて、左手から流します。

ですから左手は、常に補助的な動き、役割をします。

そういう意味で、視覚的に左手は無いも同然、あまり動きもしない。

そうした形が、そのような伝説を作ったのでしょう。

私が「赤い雪を降らせよ。」と言ったことはありません。

無理難題を言って、難行苦行をさせたことは事実です。

ただし私自身は、自らも座り続けて、楽しんで修行をしたので、

それが苦行だとは思えなかったのです。

元極功法は、仏教が伝わってきて、仏教と道教の粋を集めた功法になりました。

私の修行が、あなたがたの功法に役立って、

今後の終末の時に花開くことを、無情の喜びに思っています。

あなた方が終末の時に活躍するので、私が9次元に存在できるわけです。

感謝しています。

あなたの功法に、私の創った経(きょう)を使っていただけることは、

誠に嬉しいことです。

日之本元極の中に、生かして入れてください。


あの遙か上まで行かねばなりません。


まだまだ遠い


真冬なのに汗だくです。


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神仏との出会い

嵩山少林寺の裏山、少室山山頂達磨堂にて、達磨大師の神より、お話がありました。

ようこそ、この達磨堂に来てくださいました。

私がここで修練をしているときには、もっと時が緩やかに流れて、

9年という時は、あっという間に過ぎて行きました。

9年と言いますが、足かけ3年半ぐらいのことです。

それほど、9年間も座り続けたわけでもありません。

私は、実際には3年半ほど、ここに座って修練をしていました。

食事も2,3日に一回程、食べておりましたし、排泄もこの近くでしていました。

洞穴の中は、清潔に保っておりました。

ここに僧侶が食べ物を運んでくれて、多少の出入りはしても、

私はほとんどの時間を座り続けて、修練を継続していました。

それはそれは、安らかな穏やかな時を過ごしただけのことで、

決して厳しい修練ではありませんでした。

私の話は随分、伝説として大げさに誇張して伝えられています。

たかだか3年半、座り続けただけのことなのに、9年の長きに渡って修行したと、掛け算されています。

もちろん私が、この地でそれくらいの年月を過ごしたということはありますが、

伝説とは大袈裟なものです。

様々なことが大袈裟に都合良く書かれています。

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生き方

「よく働く」と言われる人は、結構居るものです。

しかし、そのよく働く人の多くは、やましい人だと神は言います。

やましい者というのは、決して悪いことをするという意味では無く、

大変、努力家で、きちんと仕事もこなしています。

が、人のために役立つような生き方の基本が出来ていないだけのことなのです。

身を挺して、人のために尽くすということは、並大抵のことでは無く、 

日常的な行動の中で、それが出来ているともかぎらないのです。

日常的には、極めて大人しく、誠実で、人のために働いている人も大勢います。

しかし、根本的に自分の身を呈して、人のために働くことと、

身を粉にして働くこととは違います。

立派だと思われる仕事に就いている人達でも、やましい者はいっぱい居ます。

心底、「身を挺して・・・」ということが、染みついて生活していなければならないのです。

宇宙は、大歓喜に向かい、拡大し続けるのが大法則です。

その構成物である人は、その宇宙への貢献が存続の条件です。

社会への貢献、人の為に貢献するのが、その存在理由です。

個の繁栄ではありません。

まず個の繁栄を目的とすれば、必ず他の個に悪い影響が出るのです。

他に貢献して、社会に貢献し、世界に貢献し、宇宙に貢献し、

それが叶った時、当然、個にも繁栄があるのです。

対象と順番を間違えてはならないのです。

皆大歓喜 団圓寿福


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