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日之本元極功法

数日前、六神秘功手当法の功法バージョンアップをすると、

このブログに書きました。

それは、私が意図していたことではなく、神から知らされたものです。

その時の神からの言葉を公開しましょう。

六神秘功手当法効力をあげます。

この功法は、増田が一番苦心して、時間をかけて変化させつつ創った

(現在の形になるまで、十数年かかっています)
功法ですから、

この功法の効力の底上げをします。 

全体のエネルギーをあげます。

昨日の戻戻止痛の功法のバージョンアップほどには、

効力を感じないかも知れませんが、功法の底上げをしました。

愚痴


最近の若い人達で、他人のと会話の中で、自分の家族を指す時に、

子供であれば「XXちゃん」と、「ちゃん」付けで呼ぶ人が居ます。

少し前なら、「うちの愚息が・・・」とか、「当家の豚児が・・・」のような言い方をして、

遜(へりくだ)ったのですが、今では堂々としたものです。

また、自分の配偶者についても、「うちの嫁が・・・・」とか、

「うちの奥さんが・・・」と言う人達が居るのが、非常に気になります。

それらについて書いている方が居ないかとネットを見てみました。

有りました。有りました。どうぞ、参考になさって下さい。

男の子育て/男の子育て関連情報妻、嫁、奥さん、家内……

正しい呼び方は?

執筆者:遠藤 雅大

自分の妻のことを「うちの嫁は……」、「うちの奥さんは……」など、

いろんな呼び方をするけれど、正しいのはどれでしょう?!

今回は「男も学ぶ一般常識」、正しい呼び方を考えてみました!

「うちの嫁は……」って、正しい使い方?!

妻?嫁?奥さん?家内?パートナーのことをどう呼んでいますか?

「うちの嫁は……」「こいつんちの嫁は……」など、

関西出身のお笑い芸人などがテレビで喋っているのを聞いたことはありませんか?

自分の妻のことを「嫁」と呼び、爆笑トークを繰り広げるいわゆる「嫁ネタ」。

関西圏は夫の配偶者のことを人前で「嫁(よめ)」と呼ぶことが多い地域なのか、

それともあくまでもネタとして使っているだけなのかよくわかりませんが、

この影響もあって最近は関東圏でも

「うちの嫁は……」「オレの嫁さんは……」という人が増えているようです。

結婚するまでは彼女(彼氏)とか恋人と呼んでいたパートナーですが、

考えてみると「妻」、「嫁さん」、「奥さん」、「家内」など

結婚してからの呼び方にはいろいろなものがあります。

気になって周囲を調べてみると、同世代では「うちの嫁は……」

「うちの奥さんは……」などと呼んでいる方が多数派ですが、

少し上の世代となると「うちの妻は……」

「うちのカミさんは……」「うちの家内は……」など人によってまちまち。

本当はどう呼ぶのが正しいのでしょうか?

そこで今回のテーマは、「夫も学ぶ一般常識」。

人前でパートナーのことをどう呼ぶのが正しいのか、早速調べてみましょう!

妻、嫁、奥さん……。

辞書(新明解国語辞典)を引いてみると意外な事実が!?

自分の妻や相手の妻のことをどう呼ぼうと、

親しい間柄では気にする必要もないのかもしれません。

ですが、例えば相手が上司や取引先、お客さまとなると

一般常識を心得ていた方が無難ですよね。

辞書を引いてみると、このようになります。

妻……夫(自分)の配偶者

嫁(嫁さん)……息子の妻

奥さん(奥様)……相手(他人)の妻、既婚者と見える女性

  家内……家の中で暮らす人、亭主の妻

カミさん(上さん)……商人の妻、その家の女主人

女房……妻のこと、朝廷に仕える女官

辞書の通りに解釈すれば、「嫁トーク」で使われる「嫁」とは、

本来は自分の妻ではなく自分の息子の妻ということになります。

地域性や芸風もあるので一概にいえませんが、

例えば「奥さん」というのは相手の妻をいう言葉ですから、

「おたくの奥さんは……」は正しくとも

「うちの奥さんは……」と使うのは間違いということに。

つまり、妻の職場に電話をかけて呼び出してもらうときに、

「○○の夫です。お忙しいところ申し訳ありませんが、うちの奥さんを呼び出してもらえないでしょうか?」

と言ったら丁寧に話しているつもりでも赤っ恥かもしれませんね。

この場合は、「妻を呼び出して……」と話すのが無難のようです。

それでは、女性は夫のことをどう呼べばいいのでしょうか?

夫?旦那?主人?自分や相手のパートナーのことは、

どう呼ぶのが正しいの?!

「うちの旦那は……」、「おたくのご主人は……」など女性たちの間でも

夫であるパートナーをどう呼べばいいのかは曖昧なものですよね。

辞書を引いてみると、このようになります。

夫……女性を「妻」というのに対し、男性をいう語

主人……家の長、店の主(あるじ)、自分の仕える人

旦那……お布施をする人、商家の奉公人が自分の主人を

        敬っていう語、男の得意客、自分や他人の夫

亭主……その家の主(あるじ)、夫、茶の湯で茶事を主催する人

辞書の通りに解釈すれば、

「主人」よりも「旦那」のほうが丁寧な呼び方であることがわかります。

つまり、訪問先で「ご主人はいらっしゃいますか?」と伺うよりは

「旦那さんはいらっしゃいますか?」の方が丁寧ということに。

もちろん地域性なども加味しなければいけませんが、

一般的には勘違いしている方が多いのではないでしょうか?

(ガイドは間違ってました)

こうやって実際に辞書を引いてみると、

その言葉の持つ本来の意味を勘違いして使っている可能性は無きにしも非ず。

そういえば、「拘(こだわ)り」という言葉は現在は良い意味で用いられることが多いですが、

以前は反対の意味だったといいますし、

その昔「奥様」という言い方には「夫=表、妻=裏」という

男女差別・女性蔑視にあたるとして抗議された例もあるほどです。

以上、今回は「夫も学ぶ一般常識」として、

パートナーをどう呼べばいいのかを考えてみました。

親しい間柄では気にもならないことかもしれませんが、

職場の小ネタとしてみんなに聞いてみるのも面白いのではないでしょうか?

もちろん今後は使い方にも注意しましょう。

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日之本元極功法


前回までの記事に加えて、過去に次のような通達をしたことがあります。

現在も適用されていますから、参考になさって下さい。

2008年7月7日、七夕の夜、飛騨地方は雷がひどく、

雨がたくさん降りました。

「修練中に雷が鳴り始め、どうしたらいいでしょう?」

という緊急質問を階ひと修練者から受けました。

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教えていただきたい事があって、メールしました。

昨夜、雷が鳴っていたため、それが落ち着いた2時間後くらいに

錬功を始めたのですが、その途中で、また、雷が鳴りだしました。

そんなにひどい音ではなかったので、きりのいいところまでやって止めたのですが、

こういう時は、直ちに錬功を止めるべきなのか、続けてよいのか迷いました。

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増田より

地球温暖化の影響を受けて、異常気象が大きな問題となっています。

地震、台風、竜巻、大雨、火山の噴火等の天災によって、

大地の邪気が吹き出す傾向は、今後ますます拡大していきます。

「階む」、「階ひと」教科書の『上達の為にしない方が良いこと』の欄に、

「天変地異の時には錬功しない」と書いてあります。

なぜでしょう?

それは、そうした天変地異が起きる時は、

天地の邪気が吹き出しているからこそ、起きるからです。

そんなときにそれらをコントロールできない人が修練をすると、

その邪気を吸い込んで、望む結果とは正反対の事になってしまうからです。

ですから、そうした時でも、天地の正邪をコントロールできる者のみが修練しても構わない訳で、

そうしたことは、相当な段階に上り詰めた者のみの話です。

そうした段階まで到達した者にとっては、天変地異の時は、

正気を寧ろ大量に取り入れる絶好の時で、修練すべきなのです。

しかし一般的には、そんなとき修練しようものなら、即座に体調を壊してしまいます。

従来は、悪天候や地震の時にも修練できる力を「階ふた講座」でお渡ししていましたが、

せっかくの修練の機会を逃すことになってしまうのも残念ですので、

代々の元極掌門人の方々とご相談しました。

その結果、中級講座を受講して、尾閭関以上の修練をされている方には、

「悪天候でも、天地の邪気を受けないで修練できる力」をお渡しすることにしました。

「階む」の段階の方々、「階ひと」でも下丹田の修練をしている方々は、

今まで通り、下記のように処理願います。

悪天候に気がついた場合は、あわてる必要はありませんが、

出来る限り速やかに収功するようにしてください。

天候の悪いときには、ゆっくり休むことです。

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②解放する力

抜き足、差し足、忍び足。

足を洗う力です。

この力を使おうと思って、自分のことを改める気持ちのある者には有効に働きます。

ただし「力」を貰っても、改めようと努力しない者には、全く無効です。

自分自身にある囚われの感情を変えようと努力しても、

生育歴などの因により、なかなか難しい者に対して、

この功法を学ぶ者に、そこから脱する「力」を与えます。

囚われから解放する力というのは、「階ふた」静功・按摩法を修練することで、

大きく自身に働きかけることになります。

もちろん「階ひと」高級講座で「みのい きのいを ぬぎすてる」

という修練も自分の欲を脱ぎ捨てるということで、

この力に通じるものではあります。

「階ふた」で与える「解放する力」というのは、

「欲ではない囚われ」から解放するということが出来るのです。

几帳面な性格、クヨクヨして悔やんでしまう性格、

マイナスのことから脱却すべく何かをしなければ気が済まないという悪癖。

飲酒、喫煙、くせのようなモノから抜け出すような力を与えます。

前述の「階ひと」高級講座と階ふたの「解放する力」との明確な線引きは出来ないでしょう。

マイナスのこと、悪い習慣で本人が否応なく陥ってしまう事柄があります。

それは主に幼少時の貧しさや育てられ方に起因している事が往々にしてあります。

その過去の体験の被害者として、本人が陥っている事柄から「解放する力」を与えます。

自らが望んで修練すれば、精神的なプラスの面を付加されるのです。

一つ具体的に例を挙げましょう。

たばこの習慣は、その「解放する力」が作用する囚われの中に入るかどうかを考えれば・・・・。

範疇に入る場合も、入らない場合もあります。

喫煙習慣のある者の「精神力の弱さ」「依存的な傾向」、

それは本人が断ち切らなければ、いけないことです。

本人の断ち切る力が充分に育っていない場合もあるし、

欲で吸っているだけではなく、自己の甘さ、弱さで止めたいと願いながら、

吸い続けている場合もあります。

そういう場合には内面の強さを育てて、禁煙の決断を手助けする必要もあります。

自己への甘さの克服という意味では、「階ひと」高級講座と重なる点もあります。

要は、その者が本当に自分の成長を願い、

自らの悪癖を絶ちたいと考えているかにあります。

今まで「解放する力 」と説明してきたことは、

「成長する力」と説明した方が適切なのかも知れません。

心を成長させるということは、この元極功法の特徴的な修練過程の結果としてもたらされるものでした。

修練によって邪気や末性が取れれば、素直な心によみがえっていくからです。

素直な心になったときに充分な愛情が注がれず、

その心が育まれることなく成長してしまった者達がいます。

全く愛情が不足しているのです。

育っていない、成長していない精神の部分に愛情を注ぎ込んで心を強くして、

その結果、悪習慣を絶ちきる強い心を築いて行こうというのが、

「階ふた」の段階の「解放する力」「成長を手助けする力」です。

汚れ、穢れがとれて、素直な心になっても、充分に愛情という栄養が行き届いてなくて、

成長しようとしても成長できない者達に対する救済の処置です。

自分で確固たる意志を持って、きちんと生きる者達が、

欲を脱ぎ捨てる「階ひと」高級講座で与える力とは、少し異なる訳です。

この場合でも、努力すること、自分が求めること、

自分の姿、弱さを認識して成長しようとすることなど、

個々人の意志が、その方向性を決定する点については今までと変わりはありません。

 「求めて、努力する者には与えられる力」なのです。

この「解放する力」「成長する力」は、

太一道開祖「簫抱珍(しょうほうちん)」よりの贈り物です。

折角頂いた素晴らしい力を、常に意識して、

埋もれさしてしまわないように、上手にお使い下さい。

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刻(とき)と所



24節季が背骨に対応しているということと、

その時間に背骨が光るということの関連を、神に聞いてみました。

24節季の時に背骨が光るということは、最もなことですが、

それを増田に、わざわざ知らせたのには訳がありました。

勿論わざわざ知らせなくても分かっていることですから、

もう知らせる事はしません。

光るということは、背骨と関連性があることを知らせるためにしたことです。

もう、その必要性はありません。

どれくらいの数の人に、光ることを見せているのですか?

エネルギーがピークになる、その時間に、あまり意識を集中させすぎずに、

意識を空白にすることが出来れば、その瞬間が判る敏感な者が居ると思います。

我々が知らせている者だけでは無くて、光るその瞬間を受け取れる者も居ると思います。

しかし、その瞬間が毎回少しずれているので、

その時間を正確に計ろうとすればするほど、間違いが起きます。

修練に集中する姿勢があって、時を意識しすぎないのであれば、

敏感な者たちには判る者もいます。

光るかどうかだけではなく、その対応する背骨に熱感があるとか、

柔らかい感じがするとか、暖かいとか、熱くなるとか、その程度の者もいると思います。

どれだけの者に知らせているかといえば、掌門人に知らせたいのです。

それが正解なのです。

今後は、エネルギーレベルがより高くなるので、悟って知り得る者たちも出てくることでしょう。

あなたの理論が正しいという証明のために、

何人か知らせていく者たちも、今後は出てきます。

過去に掌門人の張志祥だけが、感じて知っていたのでは無く、

代々の掌門人は24個の背骨と24節気の関連性を分かっていたのです。

それは、時計の無い時代に、修練を一日中したときに分かる結果です。

多くの掌門人が口伝えて伝承してきた事柄です。

修練者の中には、現在日之本から伝えられている時間が少しずれていると感じている者もいます。

前半にずれる場合もあれば、ちょうどその時を示しているときもありますし、

また後半にずれているときもあります。

ずれているが、近い値という点で、この示された時間を使っていけば良いのです。