元極功法

またまた、「ターキッシュ ギュルさん」から、ご質問を頂きました。

「素朴な質問です。

張 志祥 先生の公開された元極功は “中華元極”というのが 正式な御名前なのでしょうか?」

張先生が、1987年に元極初公開した時は、

「中国元極功法」として発表されました。

しかし、中国一般では、中華思想という考え方があって、

「中国が世界の中心である」と考える人々が多く居たのです。
その中国を囲む周りは、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、

北狄(ほくてき)、南蛮(なんばん)として蔑む歴史がありました。
今ではそんなことはないでしょうが、「中国は優れている」という意味で、

中華と自民族を持ち上げることは続いてあります。
よって当時から、「中華元極」という言い方も使われていました。
確か1992年だったかと思いますが、

中国共産党政府の取る宗教的な臭いのするものへの締め付けを逃れる考えからと、

広範な作用が有る事を知って貰う為という意味で、

「元極学」というように名称を変更しました。
私の考えですが、張先生はあくまで「元極道」を使いたかったのではなかったか?

と、推測しています。

張先生は非常に柔軟な考え方の方でいらっしゃいまいたから、

社会の流れ、時代の流れに順応し、人々に多く受け入れて貰えるよう、

ご自分の囚われにいつまでも拘泥せず、

名前を変えていったのだと思います。

私は、その「中国共産党政府の取る宗教的な臭いのするものへの締め付けを逃れる」

と、いうところに引っかかりがあるので、

あまり「元極学」という名前を使いたく有りません。

中国の周りが、勿論劣っているとは思っていませんが、

この様な偉大な功法を創り上げた中国先人達の偉業を讃える為に、

敢えて「中華元極」という言い方をしたいと思っています。
そしてもうひとつ、こうした政治的な理由から中国での功法普及が困難な為、

中国から日本へと、この功法が引き渡され、

太一道ーーー> 元極道 ーーー> 中国元極功法

         ーーー> 元極学 ーーー> 日之本元極

となった今、進展させた「日之本元極」功法と、

それまでの土台の構築をして下さった「中華元極功法」と、

分けて言及する時にも使わせていただいています。

元極功法は、通常の気功法を遙かに超越しているが故、

世間一般には殆ど認識されていません。
よって、いろいろご質問等お有りになるでしょうから、

今まで私がブログ内で書いてきた、

まず、そこを御覧下さい。

中国河南省衛輝市比干廟にある、太一道代々掌門人の碑

功法と修練



「ターキッシュ ギュルさん」から、コメントを頂きました。

先日の修練と趣味のことについてです。 
クリック

「修練は厳しいというものの、

その修練に楽しみと歓びと感動と探究・追求等の意欲が出るという

私の感覚は 違うのでしょうか!?」

いや、修練にそうした楽しみ、歓びと感動などが全くないと言っているのではありません。


段階段階で、喜びや楽しみ、達成感などの感情は

当然湧いてきますし、出てきて当然のものです。

幼稚園児が一桁の足し算を出来たと喜びますが、

大学生になってから一桁の足し算が出来ても嬉しくないように、

修練も成長に応じて段階を上がっていくべきです。

その一つ一つの段階ごとに、

力を付けさせるようなハードルが設定されているということなのです。

張先生がお創りになった中華元極学は、静功のレベルでいうと、

一部・混沌初開法にて4段階、

二部・鴻蒙済判法では4次元、

三部・人天交会法にては6段階のレベルが設けられています。

それを更に進展させた、日之本元極功法は、

「階む」で1段階、

「階ひと」で6段階、

「階ふた」で6段階、

「階み」で9段階の階段が設定されています。

ですから、ご自分の成長と共に、

一つ一つ階段を上るように功法をステップアップしていった方が、

殆どの人は早く目的地に到達出来るのです。

中には、何億人に一人か、何十億人に一人の割合で、

たった一つの功法で全てを突き抜けるように悟れる人も居るやもしれません。

元極道の開祖・普善禅師は、

一生下丹田の静功だけで、全てを悟ったといわれています。

ただ、そうした修練の過程で、目先の喜び、感動のみを追い求めていると、

本当の目的を見失ってしまいます。

継続的な修練によって、自らの金線を伸ばし、

元気段階で虚空界と繋がり、

元光段階で太空界と結ばれ、

元音段階において真空界に到達出来れば、

天地宇宙に同期して生きることが出来ます。

そうした生活の中で、自らに課せられた本当の役割を見いだし達成していく、

この事が出来て初めて自分の生存することの本当の喜びに遭遇出来るのです。

修練の継続こそが、その刹那に誘う唯一の道です。

時間がありません。急がねば間に合わないのです。

効果的な修練方法で力を次々に付け、

「天人相応」の域に一時でも早く到達して下さい。

功法と修練

    クリック    

のことが書いてありました。

「いつか、趣味は修練ですと答えられるときが来るかもしれない。

そうありたいと思う。」

と結んでいます。

修練功法を創る側からいえば、

「修練が趣味」は、あり得ないことです。

何故なら、その修練の継続による苦痛を、

乗り越えることが出来るか出来ないか、という

ギリギリのところに功法が設定されているからです。

難行苦行を乗り越えて、力を付けて貰えるように創ってあるのです。

張志祥先生より一子相伝の衣鉢を授けられて、

功法を作り始めた当初は、如何に効果を上げて、

修練者の皆さんが簡単に力を付けたり、

不都合を取り除けるようにと功法を考えていました。

すると、ある時、掌門人の神々からお叱りがあったのです。

「そんなに簡単に偉大な力を渡してはいけない。

本当に耐える力を付けた者に力が渡るように功法を創りなさい。」

と、申し渡されました。

耐える力とは、単に功法を続けるだけのことではなく、

本当に心底、神仏、功法を信じているか?

金銭的な障壁を乗り越えられるか?

(昔から「黄金で道を買う」という習わしがあります)

習いに来る距離や時間の制限を突破出来るか?

家族や周りの人々との軋轢に耐えきったり、認めて貰えるような地道な努力が出来るか?

自分の為にではなく、他人の為に、功法の力を生かし続けられるか?

等々を根底に、創られているのですから、

いつも楽しく出来るという風には、おいそれといかないのです。

こうしたことを満たした上で、楽しく修練出来る人が居れば、

その方は、もう神の領域に入っておられる方でしょう。