神社・仏閣

写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。

中国

おなかの痛くなる好転反応

中国の泰山に呼ばれて、この9月(2016年)に行ってきました。
その時泰山の神が以下の様に仰いました。

おなかの痛くなる好転反応は困る、という修練者がいます。
多くの者たちは、自分が回復していく様は、あまりわからないものです。

一例を挙げましょう。
ある時、足が痛くて静座も出来ない。足を引きずってゆっくりしか歩けないから、
貫頂で何とかならないか、という方がいらっしゃいました。
30分間の貫頂帯功が終わったら、スタスタと足早に歩いて帰ろうとなさるので、
「もう痛くないのですか?」
と、お聞きすると
「あれ、ホントだ。何も痛くない。」
痛かった時のことをさっぱりと忘れていました。

良くなっていく時は、悪かった時のことをすぐに忘れてしまう方が多いものです。

神社・仏閣

写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。

芸術と気功


以下のように多摩美術大教授の椹木野衣(さわらぎのい)さんの

紹介文が読売新聞から出されています。

その中で、ダリは常識と非常識 、

現実と夢の垣根がなくなっていると述べています。

しかし私はそうではないと思っています。

椹木さんが夢と言っているものは、

ダリには本当に見えていたのだと思います。

我々のように修練によって、

あるいは師の力によって強制的に、

天目が開いていれば、

通常の人たちには見えない無形の映像が見えるわけです。

それを物質的な映像と、

重ね合わせて描いただけだと思われます。

むしろその2つの映像を区分けして描くことなど不可能だったからです。

そうした手法で書かれた作品の中に、

「姿の見えない眠る人、馬、獅子」

「見えない人物たちのいるシュールリアリズム的構成」

「死の快楽の中で」等があります。

死後、神上ることが約束された上、生まれてきたダリにとって、

そうした能力が発現された事は当然のことだと思われます。

上記の作品などの多くは、 1930年代以後に発表されたものです。

描きあらわす技術を身につけた上で、

鋭い観察力と狂人じみた思索、しつこいほどの表現欲求が整った後、

そうした作品が生まれ出てきたのだと思います。

我々も含め、

有形有象と無形無象、有形の世界と無形の世界、

この双方の存在を認め、

そうした構造の中でいかに有意義な生涯を送るのか、

問われているところなのです。

神社・仏閣

写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。

芸術と気功


*****************
ダリの神に質問です。

あなたは、何を評価されて神になることが出来たのですか?
*****************

私が評価されたというよりも、

神になって働くことが適当であると、定められていたのです。
つまりは、この役割を持って生まれてきたといえます。
デザインや絵画が優れていたという点は、

多少評価されましたが、それよりもむしろ、

私は神になることが決められていて、

導かれて生きて働く活動をしていた。
そして予定通り、神として働くこととなり、

あなた方と出会った。
私は、神になってから与えられる仕事の方が

重要なので、神上がったのです。
それは、そうなるべくして、

私の誕生前から計画されていました。

神になってから、与えられた重要な任務である仕事とは、

一大イベントでもある大きな仕事は、

こうしてあなた方を導いていくことなのです。
絵画的なこと、デザイン的なこと、

空間的なことを通して、
あなた方の組織が拡大の道筋を歩んでいくように導くことが、
神として定められていた私の役割なのです。

あなた方に縁を持った人々、修練者のS.H.もそうですし、

デザインや絵画の数々も

すべてに興味を持ってデザイン、表現等をしていく者たち、
あなたがたもそうですし、あなた方を支えていく者たちに、

広く導きを与えています。

それは、私ひとりではなく、

この役割を担っている神々のチームということになります。
私は、幸運にも導く者の一人として、

直接的にあなたがたに話せる時をいただきましたことに感謝しています。

神社・仏閣

写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。

芸術と気功

働く者の多くは、なぜ働くのか?と問われれば、
働くことが生きるために重要だからと答えます。
働くことが生きるために重要というよりも、

組み込まれた人生の設計図の中に生きて働き、
人の役に立って次の時代に

命をつないでいくことが必要だったからです。

われわれが生きている間は、

常に仕組まれた、構図の中に生かされている。
そんな感覚で時を過ごしていました。
そんな中で、私は危惧している問題を持ちました。
それは、私が描いている絵の中にも表しているとおり、

放射能の汚染です。
(ダリの作品の中には、「ラファエロの聖母の最高速度」、

「ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌」、

「ビキニの3つのスフィンクス」

「パイ中間子の天使」というような、

放射能を示唆する作品が多く見られる。)

広島に落とされた放射能、

さらに原発で汚染が拡がっている放射能、

それらは、やがてはこの地球を汚して、

次の時代に移り変わっていく破壊的な事柄であり、

このことをきっかけにして、世の中が大きく変化していくことを、

あなたがたに伝えなければなりません。

世の中の悲しい現実とともに、お伝えしなければならないことは、

私にとっても悲しいことなのです。

私の絵が素晴らしいという評価を得ているのは、

私が素晴らしいのではなくて、

私には空間的な感覚があって、

それら思いっきり表現したところ、

それに共感する人々がすばらしいと評価してくださった。

ですから、すべての人が、

私の絵をすばらしいと感じるわけではありません。

ここが、あなた方と共通する事柄であると思います。

世の中に、認められるということは、

すべての人に認められるということではありませんから、

結果的にターゲットが絞られてくることにつながります。
私と共通しているところは、そこのところです。

神社・仏閣

写真は、一部表示されていません。写真をクリックすると全面が見られます。

芸術と気功

私が、とらわれたのは、愛情と「しそう」。
「しそう」とは、考えではなく、死ぬこと。

常に人は、生まれて、生きて、愛し合って死んでいく。

そういう人の生涯を感じておりました。
すべて、生きている者たちの意識、感情の中には、

死んだ者の感性が息づいている。
つまりは、それは輪廻転生している「意識」が

存在するということだったのですが、
そういう生きて死ぬことの感覚が、

生きている私の意識の中に

大きなウエートを持って存在をしていました。

その当時には、自分自身の感覚としては、

とても不思議で理解しがたい感情だったのです。

それらは、白い空間と黒い空間が一緒に存在するとか、

上下、左右の距離が同時に存在するとか、
時空が、同時に存在するという

貴方の考えと相通じる考えがありました。

そういう、次元の中の感覚は、

神上がった今現在では

当然と言えば当然の感覚なのですが、
当時、理解もできない空間の感覚を感じることができたことは、

私にとって幸運なことでした。

幸運だったことを、技術的な力を得て、

絵画にぶつけるように表現したことが、

多くの人々の共感を得たのです。
ということは、私の感じた空間と時間の概念、

生まれることは死ぬこと、生きることは死と共に生きること、
という概念は、誰しもが持ち得ている感覚である

ということに通じます。