修練の基本的な心構え 1 元極功法 てい先生(おう通訳) 

2018年10月23日(火)新宮修練舎15:00~17:00 講演

皆様こんにちは。これから講座を始めさせて頂きます。私はここに立ちますが、先生扱いしないでください。皆さんと同級生であると共に元極学を勉強して、元極学の理論とか体験等をここで皆様の方にお話ししてきます。ここで少し見ましたが、増田先生の方がものすごく、色々なことを元極学についてたくさん書いていらっしゃることに事に気づきまして、皆様も同じように増田先生についてたくさん勉強されていると思います。私がここに立って間違った部分があれば是非ご指摘ください。

元極学の本には、たくさんのものが含まれていまして、奥深い理論として張先生が書いていらっしゃいます。それを考えるために、一つの入り口としまして歴史から入っていきます。八百年前の太一道から、だんだん発展して元極秘録になって張先生が公開する。歴史の線があります。元極学を応用するには、元極功法であります。それをまとめてわかりやすくするには、昨日お話しましたように「浄、定、観、運、真」という段取りで考えます。

たくさんの元極の先輩から、張先生からいつも教えて頂いたのは、「浄、定、観、運、真」の最も需要なのは、「観心、守竅、念訣」のこの三つが一番の基本であります。「観心」心を観るという「観心」ですが、「心」というのは、慧心の「心」であります。上の方に存在していまして、」心臓の「心」ではありません。「観心」としての方法としては、昔から言われていますが、「大乗」の方法です。

「心」の役割は体、自分と天地と一緒にコントロールしています。また「心」とは宇宙にある物事の規律であります。そして万事万物をコントロールするものであります。「心」によって万事万物が生まれます。「心」によって万事万物が変わる。「心」によって万事万物が調和するという言葉で、最後はすべてのものが全部「心」によってコントロールされます。だから、「心」は全てである。「心」によって万事万物が生まれてくる。宇宙の万事万物の運化の一番の規律である。玄関から中に一分三

寸の深さで、玄関の中に存在します。ですから心臓ではなくて、上に存在します。有形有象という言い方で言うと、この玄関から奥には松果体(松の果物と書きますが)があります。「心」が目によって反映されます。手によって反映されます。そういうときには例えば張先生の目を見ると光ります。手の方も光ります。そういうときには「心」が反映されています。有形の考えで言うと、目で存在する、手で存在すると言いますが、無形無象の考えで言うと、「心」はどこにもなく、どこにも表現できます。修練者でいうには、「慧心」であります。知恵の「慧」で巡るということになります。

先ほどは「心」の話をしましたが、次は「守竅」です。竅穴を守る。竅穴のことになりますと、「竅穴」が「心」によって開発されます。「心」と「竅穴」が一体となると非常にいいことが生まれます。

「心」を各竅穴に持っていくことによって、修練のレベル、次元が変わっていきます。「みょう」たくみという字を書きますが、「心」と「竅穴」が一緒になって竅穴が出てくると、たくみ、「みょう」のものが出てくる。何と表現したら良いかわかりませんが、非常に、さすがというような、思いになります。各竅穴、次元によって違ってきますが、たくみがそれぞれ違います。体の中の内景図が違います。竅穴はどのくらいの大きさかと言いますと、指の甲の位の形、大きさとイメージしてください。

竅穴の修練でエネルギーが蓄えられます。各竅穴によって蓄えられます。最終的に貫頂する先生、張先生がエネルギー、パワーがあるかと言うと、竅穴によってエネルギーが貯まってくる。ですから、「観心」、「守竅」、三つ目としては「念訣」。何回も繰り返して言いますが、十字真言の念訣となります。十字真言は先天の情報です。人間が生まれるまで、お母さんのお腹にいるときの十カ月の胎音に対応しています。先天の情報として、人間が先天からもってきている、天地とつなげる情報として体の方についてきます。

元極学の先祖たちが先天の情報を見つけました。子供が生まれるまでの十カ月。一ヶ月目、二ヶ月目、…とそれぞれ音が変わります。それぞれ十字真言という形で表現します。十字真言、先天のものがそろってから、十カ月経ってから、人間が初めて生まれます。生まれて目が開いて、耳が聞こえるようになります。生まれてから後天に入ります。先天のエネルギーはたっぷり充実したままで生まれて、後天に変わっていきます。

元極学で考えますと、先天のものが充実しないと、欠陥が残ります。子供が十カ月お母さんのお腹の中にいて、先天のものをいっぱいもらってから生まれてきます。日数が足りずに生まれてくると、七ヶ月、八か月で生まれてくると、先天のものが弱いです。あるいは一つまたは二つ音が足りないことがありまして、そういう子供には病気や欠陥が残ります。そういうことを知った上で、お母さん自体がしっかりして、元極学の音楽を聞いて先天のエネルギーをいっぱいもらえば、早産児ということは発生しないはずです。

元極学を学んだ方は自分の親戚や家族の方で妊娠した方、妊婦には、妊娠したら、元極学の音楽を聞かせる。流す。こういうことから先天の情報が体の方に入る。元極の音楽を聴く人間は何となく安定する。先天のエネルギーをいっぱいもらえていい子供が生まれてくる。

念訣とは情報です。情報を教える。一般の気功法は形だけを重視しますが、本当のものは教えていません。元極学は間違いなく十字真言のような訣を教えてくれます。念訣によって後天の体が先天と繋がります。念訣すればするほど、先天のものと情報交換ができて、一番の表現としては、修練しているうちに唾液が沢山出てきます。唾液が出ることでさらに自分の守っている竅穴に送る。そういうことで竅穴がはっきりできて、エネルギーが蓄えられます。修練者としては最終的に四次元まで修練して、体全部の全竅穴に開設するわけです。元極学では三環九転と言いますが、体全部の竅穴に気が流れるようになります。三部の功法に入ると、皇極ができあがります。エネルギーが自由自在に使えるようになります。

元極学の教科書に書いてあるように、無生生無無不生、有形、無形の世界になります。自分の修練によって全てのことに対して全部解釈できるという段階にあがります。自分によって全てのことがわかってきて、どう説明しても、どう解釈しても、理解できるという、本当の心を持つ人間になれます。以上まとめていったのは、強調したいのは、「観心」「守竅」「念訣」がいかに重要であるか、どれ一つ忘れて修練しても、元極とは言えません。

次は具体的に説明します。元極功法の基本の理論をお話ししましょう。一部功法では、十の章に分けて書いてあります。「心印」、「信定」、「養徳」、「正身と無明」「観訣」「念化」「悟定」「性命根本」「無人無我」人も無い、自分も無い状態ですね。「一字放光明」と10に分けてテキストには各章書いてあります。

十の部分がありますが、これからは一番と二番に絞ってお話しします。まず一番目「心印」からお話しします。「心」とは鏡。「心」は鏡のように。鏡は汚れると何も映りません。きれいに映らない。「心」をいつも鏡のようにきれいに拭くということ。よく「明鏡」という言い方をします。明るい鏡。汚れない。1寸も汚れない鏡のような「心」。これこそこういう表現で言えます。「元」は即ち「道」である。「道」即ち「我」である。「我」即ち「真」である。「真」即ち慧心の「心」であると。全体が汚れない「心」。全体が汚れなければこういうことになるはずです。

仏教の例えで一つ例を挙げて言いますが、中国の「青海省」チベットに近いところですが、タール寺という非常に有名なお寺があります。そこの昔の有名な大師、「ちゅうかば」という大師がいらっしゃいます。仏教の有名な大師です。その大師の言葉でずっとタール寺で掲げてありますが、「仏」は即ち「我」である。「我」が「仏」である。修練者のことですよ。修練者自身が「仏」になる。仏教で修練すると「仏」は「仏」、「我」は「我」ということは大間違いです。「仏」はどこに居るかというと自分の心の中に居る。修行者が最後の自分の修行によって、仏が出てくるのは、自分の「心」から出てくる。彼が言っているのは修練者イコール「仏」であるという言い方をします。その言葉は仏教では有名です。

それを取り入れて話したいのは、元極もそのように考えます。「元」は「道」である。「道」とは天地万物の理論、元であると。自分の修練によって「心」がきれいになれば、「道」は自分の「心」と一緒です。最終的には「心」にとまります。自分が修練したいのは、求めるのは「心」であります。

初心者からよく質問を受けますが、「心」とはいったいどこにあるのでしょう。元極では「内景図」と「外景図」があります。「内景図」は自分の竅穴。「外景図」は空。虚空界、太空界、・・・・とありますが、どうやってそれがわかるのか。という質問が初心者の方から多いのです。修練しないとわからないはずなのです。それでも勉強するか辞めるかという話になると、「心」というのは「我」ということを理解した上で、混沌の状態から勉強に入り、ある程度積み重ねるとだんだん分かってくるという話です。混沌からおきて最終的には明白に変わります。