修練が趣味?
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のことが書いてありました。
「いつか、趣味は修練ですと答えられるときが来るかもしれない。
そうありたいと思う。」
と結んでいます。
修練功法を創る側からいえば、
「修練が趣味」は、あり得ないことです。
何故なら、その修練の継続による苦痛を、
乗り越えることが出来るか出来ないか、という
ギリギリのところに功法が設定されているからです。
難行苦行を乗り越えて、力を付けて貰えるように創ってあるのです。
張志祥先生より一子相伝の衣鉢を授けられて、
功法を作り始めた当初は、
如何に効果を上げて、修練者の皆さんが簡単に力を付けたり、
不都合を取り除けるようにと功法を考えていました。
すると、ある時、掌門人の神々からお叱りがあったのです。
「そんなに簡単に偉大な力を渡してはいけない。
本当に耐える力を付けた者に力が渡るように功法を創りなさい。」
と、申し渡されました。
耐える力とは、単に功法を続けるだけのことではなく、
本当に心底、神仏、功法を信じているか?
金銭的な障壁を乗り越えられるか?
(昔から「黄金で道を買う」という習わしがあります)
習いに来る距離や時間の制限を突破出来るか?
家族や周りの人々との軋轢に耐えきったり、認めて貰えるような地道な努力が出来るか?
自分の為にではなく、他人の為に、功法の力を生かし続けられるか?
等々を根底に、創られているのですから、
いつも楽しく出来るという風には、おいそれといかないのです。
こうしたことを満たした上で、楽しく修練出来る人が居れば、
その方は、もう神の領域に入っておられる方でしょう。