自由ということ 2
野口悠紀雄氏が、著書の中で、言っています。
「自由な市場」とか「競争社会」とは、「何をやっても自由な社会」ではないからだ。
市場経済は、強いルールの下でしか機能しない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・##1
ここでは、狭い範囲のこととして述べられていますが、人の生き方も同じことなのです。
人は、自分で選択決断し、行動すればいろんなことが出来ます。
出来ることは全て、天地に許されていて自由なのです。
ひたすら食べ続けることも、守銭奴となることも、殺人も、他人のために我が命を投げ出すことも、
みな許されています。
やって実現可能なことはみな許されているのです。
人の出来る事は、全て天から許されていて自由なのです。
しかし、その自由の中で何をするかが問われています。
出来るから、何をしても良いというのは、本当の自由ではありません。
人を殺(あや)めることは可能だとしても、ほとんどの人には倫理的に出来ないことでしょう。
この倫理的には、ということの意味は、人としての倫理なのです。
人の倫理と、宇宙=天の倫理は大きく違うようです。
永遠の存在として、人の意識が残ることを許されるためには、天の倫理に自分の倫理を合わせなければなりません。
宇宙の中で存続するわけですから、宇宙の法則に合わないと存続は認められないのです。
我々の居る3次元物質世界では許されていても、上の次元では許されないことはいっぱいあります。
欲が自由を主張します。
昔の人々も判っていたのでしょう。
「六根清浄」
と言って、欲を絶ちきろうとしてきたのです。
こうした行為について、心なき人々は、
「自由を束縛する」、「拘束することは、悪だ」
と、自らの欲を隠そうとするのです。
正当化しようとします。
でも、それは自らの存続(肉体の存続ではありません。顕在意識の存続です)を、自ら諦めることなんですよ。