自由ということ 3
野口悠紀雄氏が、著書の中で、言っています。
他からの信頼や社会的評価を落とせば、大きな損失を被るという状況が必要である。
逆に言えば、「失うべき何物も持たない」人々は、信頼を裏切る可能性がある。
なぜなら、それによって利益を得る反面で、失うものは何もないからである。
相互信頼とは、「失うべき多くのものを持つ人々の集まり」でこそ形成されるのだ。・・・・・・・・##2
この部分の野口さんの意見には、異論があります。
先回、人にはすることの出来ることは何でも許されており、自由である。
しかし、その自由にはその者の持つ倫理によって、ブレーキがかかることを書いた。
その倫理とは、人の倫理ではなく、宇宙の倫理が働かなくてはならず、
その宇宙倫理のブレーキを踏む行為をさせないのが、人の欲なのだ。
野口さんは、倫理のブレーキが「失うべき何物も持たない」人々では踏めないといっているのです。
私は、そんなことはないと思っています。
失う物をいっぱい持っている者でも、倫理観の低いものもいれば、
何も持たない者でも宇宙倫理にかなっているものも居ます。
野口さんは、「現代の社会常識的な判断基準=損得」に冒されていると思います。
本来の基準は、「善悪」であるべきなのです。
全ての者が、何も持っていないという認識で生活すべきなのです。
それを、これは私の物、あれは貴方の物とするから、欲にまみれ、物や地位、名誉などを手放せなくなります。
そして、「自由を侵された。」と言って、本来歩かなければならない道から外れるのです。
天地の中での自由とは、そのことばの意味とは裏腹に、
すべてのものを手放して本来通らねばならないたった一つの道(タオ)を選んで進んでいけるかどうかということなのです。