日之本元極の源流(6)―2
寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その2)
(2) 魏の太武帝の滅仏と北方天師道の衰退
道教が盛んになると、仏教との対立が激しくなった。もともと仏教は中国では方仙道の神仙の学を借りて布教していた。魏・晋や南北朝の時代には、北方の仏教は神仙道教に付き従い、南方の仏教は玄学に付き従っていた。仏図澄などは教えを伝える一方で、咒を唱えて鬼を駆ることもでき、法術占験を行って神僧と号していたので、実際には神仙道士と同じようなものだった。その後、仏教経典が大量に翻訳され、各地に高僧が増えていくと、次第に仏教の本来のありようが人々に知られるようになった。北方に五胡が入り乱れると、仏教は少数民族にも伝えられた。後趙の時には、石虎が仏図澄に心酔し、積極的に仏教を推奨したので、多くの漢人が出家し、寺院が国内のあちこちに建てられた。石虎などの少数民族の国主が仏教を信奉したのは、仏教を借りて漢文化に対抗しようという心理があったからでもある。彼らは「朕はもともと漢人ではないし、仏は漢人の神ではない」と考えていたので、仏を崇めるようになったのも自然な成り行きだった。仏教が盛んになると、それは北方で漢文化を代表する儒学の世家のねたみを買うこととなった。崔浩は儒学の士族の出身でったので、仏教のような優れた異文化を非常に憎悪した。魏の太武帝拓跋ははじめは仏教を悪くは思っていなかった。しかし、のちに寇謙之と崔浩に影響されて誠実に道教を信奉するようになり、また北方を統一する戦争では割拠政権を助ける僧侶と何度も敵対したので、次第に仏教を嫌悪するようになった。崔浩は機会をつかんで仏教を滅ぼすよう太武帝をそそのかし、太武帝は太平真君七年(446年)に仏教を滅ぼせという命令を下した。魏の太武帝は中原の支配者となるために、漢文化を崇め、鮮卑族が黄帝の正当な子孫であると考えるようになった。彼が、「朕は異民族ではなく、異民族の神を事としない」と天下にアピールするために仏教を滅ぼそうとしたことも自然な成り行きだった。
仏教を弾圧したことは仏教を信奉する鮮卑の貴族の反発を招き、拓跋氏の政権内部の対立が激しくなった。寇謙之は僧侶を虐殺することには賛成しなかった。彼は死ぬ前に天師道がやがて政治闘争のあおりで衰退していくことを予測していた。寇謙之の死後、崔浩は鮮卑の貴族の反発から死刑にされた。ほどなく、西暦452年には太武帝も殺された。後世の皇帝はみんな才知があり仏教を信奉したので、天師道は衰退していった。特に北斉の文宣帝高洋の時には、天保六年(555年)に道教を廃止する命令が下され、寇謙之の天師道教団は断絶してしまった。