日之本元極の源流(6)―7

寇謙之について、もう少し詳しく、そしてその時代的背景を知っていただくように、「仙学研究舎 ホームページ」より以下に転載いたします。(その7)

 (6) 楼観道の起こり
 古楼観台は、今の陜西省西安市の南にある終南山の山麓の北にあり、周の時代には関尹子の邸宅だったと伝えられている。《漢書・芸文志》によると、関尹は「名を喜といい、関所の官吏だったが、老子が関を過ぎると、喜は官吏をやめてこれに従った」と注釈してある。後世の仙伝では彼を関令尹喜と呼んでいる。関隴の士族天水の尹氏は関尹子をうらやみ、道教を信奉したその子弟のほとんどが楼観に住み、尹喜の子孫であると称した。魏・晋の神仙道教の道士梁堪は楼観に住んで修行し、鄭法師と仙人の尹軌(山西省太原の人、武当山の神仙道士)から神仙方術を伝授され、晋の元帝大光元年(318年)に仙去した。その弟子の王嘉は、字を子年といい、陜西安陽の人だった。彼は著名な道士であり、苻堅と姚萇に非常に礼遇され、《拾遺記》や《牽三歌讖》を著した。王嘉は孫徹に伝え、孫徹は馬倹に伝え、楼観道団を形成した。北魏の太武帝の時、楼観道は次第に盛んになった。その中の優れた道士には尹通、その甥の尹法興、弟子の牛文侯、王道義などがいた。彼らは楼観に住み、道教経典を購入し、不動産を増やし、広く功徳を施し教団を拡大した。魏の孝文帝の時、王道義弟子の陳宝熾は、常に《上清大洞真経》を読み、未兆先知の術(予知能力)を持っていた。その弟子の李順興・侯楷および侯楷の弟子の厳達も優れた術を持ち、一時期名を馳せた。北周の武帝の宇文が仏教と道教を廃止した時、特に厳達・王延・蘇道標・程法明・周化生・王真微・史道楽・于長文・張法成・伏道崇の十人を招き、通道観に入らせ修道させた。世間では彼らのことを「田谷十老」と呼んだ。隋・唐の時代には、楼観道はさらに勢いが盛んになった。

 楼観道の道士は太上老君を尊び、尹喜を慕い、《道徳経》・《老子西昇経》などを研究した。それは、神仙道教と北方新天師道が結び付いたものだった。その後、南方の陸修静や陶弘景の経派の道法が華山の陸景・焦曠・韋節などの道士によって楼観に伝わり、楼観の道士の王延も華山で修行をしたので、南北朝時代後期の楼観派の道法は南北の道教が融合していた。楼観の道士は《老子》・《荘子》・《列子》・《周易》を研究していただけでなく、上清経法も修めていた。楼観道は隋・唐にも盛んに伝えられ、宋代まで伝承されていた。


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