大黒天とボッチョーニ(2)
この大黒が走る姿という新聞記事を見て、大黒天本人にお話しを聞いてみました。
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わっはっは、
わしじゃよ。大黒じゃよ。
これは、わしが走っている姿じゃよ。けれども、通常人が、走って歩く、走って飛び跳ねるという姿ではないぞ。走ってすべる、走って進行するそういう姿じゃよ。つまりは、われわれは、人の形をしてはおるが、神の存在じゃ。身体は有機物じゃが、無形の身体を基として存在しておるのじゃ。
重量というものがなく、飛び跳ねる必要がないのだよ。走っているけれども、人の常識で考える走る姿ではなく、すべって、飛んでいる姿だと想像してくだされ。そのために、右手、右足。左手、左足がそろって、前に踏み出されているのじゃ。
交互に、滑って走る走り方のようになっていて当然じゃろ。
この像は、そういう、我々の存在を感性で捉えた者が、我々の姿を見えるようにあらわしたものなんじゃ。
古来、日本にはそうした見えないものを感得する能力を与えられて生まれてきた者が多く居ったのじゃ。そうした像や、絵画には、伝統的に伝えられてきた物が数多く残されて居る。
人の形で存在している神ではあるが、それは、指導する対照の人々と気持ちを同じくするという意味で、身体を同じくしておるのじゃ。
しかし、われわれは、無形の存在として神の世界、無形の世界に、依拠しながら、この世に存在しているものなのじゃ。
もうひとつの走っている像は、人がモデルじゃぞ。
まったく重心の位置がちがっておろうが・・・・。
重心の位置が人として、足にあるのに反して、我を模した立像の重心点は身体の中央にあることがわかろうものぞ。
人を表しているか、その立像が何を表しているかは、無形のものを感得しようとする気持ちを修練すれば、自ずから、モデルとなっているモノが、何者であるのかということがわかるようになってくるんじゃ。
判ったかの~、わっはっは・・・・・。
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この中の、滑るという感覚は、スキーの距離競技を思えば判るでしょう。
身体が左右にぶれず、一回の蹴りで長く滑るには、右手と右足が同時に出るのです。走るときのように右足左手を出して滑ってご覧なさい。身体が捻られて、上手く滑れないはずです。
いずれにせよ、無形無象のものの大切さが判ります。(完)
ボッチョーニは、ウィキペディアで・・・・・