大黒天とボッチョーニ(1)

2008.12.11の朝日新聞夕刊に以下のような記事が掲載されました。
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美 くらべて見る11  大黒天立像VS.ボッチョーニの彫刻
走る姿 ゴールは同じ

ふつう大黒天というと、右手に打ち出の小づちをもち、大きな袋を背負って、米俵の上にどっかり座るか、しっかと立つかのどちらかのポーズをしているものだ。

ところが鎌倉時代に作られた「大黒天立像」(奈良国立博物館蔵)は、両手両足を前後に大きく開いて疾走している。大地をしっかり踏みしめ、ひたすら前へ前へと力強く邁進しているのだ。
これは「立像」というより「走像」といったほうがいい。

こうした自由闊達な姿態表現は、日本では、平安時代の絵巻物から北斎にいたるまで見られるものだ。
ところが、ヨーロッパでは、躍動感や飛翔感の表現にすぐれた成果を上げた17世紀のバロック美術、そして19世紀のロダンでさえ、走る彫刻までは生み出さなかった。

ヨーロッパで、動きの表現を本格的に追求しようという気運が高まるのは、20世紀初頭のイタリア未来派においてである。連続写真の開発に刺激を受けて、動きの表現を絵画に積極的に取り入れたのが始まりだ。
ボッチョーニはそれを彫刻でも試みて、「空間における連続運動の特異な形態」という作品(写真下)を生み出した。

ボッチョーニの作品は、人間というよりは、ロボットやサイボーグを思わせるが、それでも生身の人間の動きを感じることが出来る。水あめみたいに粘りのある液体の中を人間が通ったら、こんなイメージになるのかもしれない。

人体の動きの軌跡、人体の周りを包む空気までをも形にしているため、太ももやふくらはぎが異様に膨張し、まるで衣服の裾がひるがえっている様に表現されている。それが結果として、袖や裾に風をはらんでひるがえる大黒天の衣服に近づくことになったのだ。

ともに右足を大きく前に踏み出している点まで共通しているのも偶然とはいえ面白い。
それぞれまったく別の地点から運動表現の問題に迫って、似たような解決法に落ち着いたところに、造形表現というものの普遍性を感じる。

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-大黒天 気功 飛翔 無形無象

潜在能力と気功・功法 気功教室日之本元極 with シグマDP1,パナソニックLX3サイキック写真-ボッチョーニ 気功 有形有象 

ボッチョーニは、ウィキペディアで・・・・・

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この二つの作品を比べ見て、無形無象のものをある程度体験したものであれば、全く違うものであることがはっきりと判ります。
まず両作品が右足を出している共通性が判ったのであれば、何故大黒天像が右手、ボッチョーニ作が左手を出しているのに気がつかないのでしょう。

ボッチョーニの作品では、下半身と上半身がひねられています。通常の疾走と言って良いでしょう。衣服のたなびき(作用する力の向きと言っても良いかもしれません)は、後方下向きです。左右の足の下の大地は、別けられてはいますが、平面の連続性を感じます。

然るに、大黒天像にあっては、右足と右手を大きく前に出しています。江戸時代以前の通称ナンバ歩きではそういったことはありますが、全速力で走っているならば、けしてそうはなりません。
両手首の向きに注目して下さい。走っているときの向きではありません。

また衣服のたなびきが、上に向かっているのが判るでしょう。右足などはめくれ上がっています。足の下は、左右が繋がっているにも関わらず、左足の部分が深く沈んでいます。疾走しているのであれば、こんなへこんだところに足を入れることはありません。この作品の、足の下のものが、大地に見えますか?

ではこの大黒天は何をしているか、・・・・・飛翔しているのです。
足の筋肉に力が入っていないのが、お判りになるでしょう。
二つの像では、重心位置、またその加速度方向が大きく相違します。

見えるものを像にした作品と、見えないけれども感じたままに作られた作品の大きな違いです。

芸術を見る目とは、肉眼で細部を見ることに加えて、見えないものを見る目のことを言い、見えないものを感じる感覚を研ぎ澄ますことが重要な鑑識眼を育てることに通じます。

この大黒天像は、立像でも走像でもなく、飛翔像と言うべきです。

(続く)